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石丸候補と政治の堕落(2024)

石丸候補と政治の堕落
Saven Satow
Jul. 16, 2024

“The ignorance of one voter in a democracy impairs the security of all”.
John F. Kennedy

 2024年東京都知事選挙において、大方の予想に反し、石丸伸二候補が次点になったことをめぐりさまざまな意見がメディアやネット上で発せられている。中には無党派層や若者から多く得票したと好意的に取り上げる論者もいる。しかし、この結果は政治の堕落の証でしかない。それは彼の選対事務局長のインタビューがよく物語っている。

 石丸候補の藤川晋之助選対事務局長は、小林圭記者の『朝日新聞DIGITAL』2024年7月13日 5時00分配信「(「受け皿」になるために)都知事選、石丸氏165万票の理由 選対事務局長・藤川晋之助氏」において、陣営の選挙運動について語っている。だが、それは競争的民主主義の暗黙のルールを無視するものだ。

 藤川事務局長は、1953年生まれで、自民党議員秘書を経て大阪市議を務めた経験がある。その後、選挙プランナーに転じ、自民党田中派や民主党の小沢グループ、日本維新の会の選挙サポートを担い、2022年、「藤川選挙戦略研究所」を設立している。彼はこのように選挙に精通した人物である。

 その事務局長は、石丸候補が具体的な公約を公表していなかったと次のように明かす。

 街頭演説を200回超やったが、特徴的なのは、細かい政策を全く言わないことだった。自己紹介を言い続けた。「小さな問題はどうでもいいんだ」といって「政治を正すんだ」という話をずっとやり続けた。それでも来る人の8、9割は「すごい」と言って帰っていく。たいして演説はうまくないし、政治の現場を知る人たちからは「中身がない」と批判ばっかりだった。だが、彼はそれを含めてわかってやっている。
 彼は「長い時間演説し、政策を主張したって、今までの政治家は政策や公約を守ったことあるのか」と言う。有権者が本気になって政策を見て、「この政策こそ必要だ」として投票するような選挙に、今は全くなっていない。

 石丸候補は細かな公約を公表せず、演説でも触れない。それは有権者が政策に基づいて投票していないと認識しているからだ。

 確かに、日本の有権者は投票の際に政策を必ずしも重視していない。それを示すコンジョイント分析を用いた計量研究は以前より発表されている。ネット検索をすると、英文の書籍や論文がヒットする。そうした研究成果を参照するなら、日本の選挙では、政策は重要な要素ではあるものの、候補者の個人的特性や所属政党ほどの影響力はないことが示されている。有権者は、具体的な政策よりも候補者の全体的なイメージや政党との関連性を重視して投票している。

 「コンジョイント分析(Conjoint Analysis)」はマーケティングの領域で利用される手法である。それは消費者の購買意思に商品のどの要素がどれくらい影響しているのか定量的に確かめることができる。 価格や性能など複数の要素の中で重視されている項目や商品化の際の機能の最適な組み合わせの傾向を数値で把握することが可能だ。

 近年でも堀内勇作ダートマス大学教授が『マニフェスト選挙を疑え:2021年総選挙の計量政治学』を著している。教授は有権者が政党支持を政策で決めていないことを示す実験を紹介している。政党名伏せて経済政策の支持率を調査すると、共産党が1位で、自公の連立与党は最下位である。ところが、「どの政策も、政党名を偽り『自民党の政策ですが支持しますか?』と聞くと支持率が上がる」。有権者は政策と別の要素で政党支持を決めているというわけだ。

 有権者は公約で投票先を選んでいない。だから、そんなものに触れる必要はない。大切なのは候補者のイメージだ。石丸候補はそうした有権者の嗜好に沿って選挙戦を展開している。

 また、事務局長は石丸候補がそのイメージはSNSによって拡散されることを念頭に置いていたと次のように述べている。

 本来なら政策で勝負するけれど、政策で勝負しても全然意味がない。今までの有識者、政界の人たち、マスコミも含めてそういう政治のムードを作ってきてしまった。そこを直感的に理解した石丸氏だからこそ、ユーチューバーとして無党派層にアプローチするという本領を発揮できた選挙だった。

 訪れた人たちみんなが投稿するから1回の演説で100万、200万回視聴になる。石丸氏の演説は15~20分間。普通、演説を炎天下で30~40分聞いたら嫌になる。団塊の世代の人たちは蓮舫さんの舌鋒(ぜっぽう)鋭い批判を聞いて、スカッとするかもしれないが、若い世代はへきえきしている。石丸氏はあまり政策を語っていなかったので、物足りないと思う人が増えて失速するのではないかと不安があったが杞憂(きゆう)だった。

 有権者、特に若年層は長い演説を好まない。だから、演説は短時間で済ませ、自己紹介だけで十分だ。演説がうまくなくてもかまわない。短く編集しやすいように振舞い、名前と個性の印象が残ればよい。集まった人たちはその姿を撮影した動画をSNSにアップしてくれる。有権者は政策で投票先を決めない。候補者個人のイメージが優先的だ。それはショート動画が繰り返し再生されることで形成・増幅される。

 石丸候補は演説で政策にろくに触れない。当然、動画でもそれはない。しかし、「若い世代」は気にしない。内容のある演説を長時間聞くより、無内容でも短時間で印象に残るものを好む。主張を理性的に吟味することは苦痛でしかなく、イメージを直観的に伝えてくれることを望む。嗜好に合うものを提供してくれるのだから、自己紹介しかない彼こそ自分たちのことを考えていると支持する。

 事務局長は、そのイメージが質問に正面から答えない橋下徹元大阪市長のようなものだと次のように話している。

 ヒヤヒヤしてみていますが、一部の人は「よく言ってくれた」みたいな評価をする人もいる。日本維新の会も橋下徹氏(元大阪府知事)という個性の強い人がいたから伸びた。そこに松井一郎氏(前大阪府知事)というコントローラーがいたから組織として機能していた。石丸氏にはそういう人物がいない。今後はそれが大きな壁になっていくだろう。

 石丸候補の言動はこの四半世紀の日本政治のパッチワークである。それは橋下徹元大阪市長の焼き直しに限らない。ワンフレーズポリティクスや新自由主義、地方分権、議会との対立、既成政党に対する不信感、無党派層の代表、話題作りの発信力、挑発的暴言などすぐにこれくらい思いつく。選挙後の「トップに据えるなら自民党に入ってもいい」という発言に至っては、当時呆れられた東国原英夫元宮崎県知事の再現だ。新しさではなく、少し前に成功した手法を臆面もなく真似する。こうした21世紀レトロの寄せ集めはパスティッシュでしかない。

 確かに、こうしたスローガンや手法は閉塞状況を打破できるのではないかとかつて期待されたものである。しかし、それは往々にして恣意的政治を招いている。蓄積を踏まえた上で新たな調整が政治における改革だが、破壊すればよくなるという楽観的独善主義でしかない。およそ民主主義的ではない恣意に基づく統治が繰り返され、政治的資源を浪費している。ただ、政治的行き詰まりが意識されると、わかりやすさゆえに、有権者はそれに期待してしまう。「真の変化、永続的な変化は一歩ずつ起きるものです」(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)。

 石丸候補の選挙戦術を明かしながらも、事務局長はこの手法が一度きりの物だと次のように論評している。

 この手法は1回限りだ。熱はやがて冷める。冷めた目で演説を聴いても「また同じことを」と思うだけ。石丸氏にはブレーンがいない。ブレーンを使って政策を組み立てていかないと続かない。やはり幅広い人たちに信頼される政策が必要だ。

 この手法は理性に冷静な思考を促すのではなく、それを低下させて感性に訴えるものだ。刺激的だけに、慣れと飽きが生じるから、ワンスルーである。実際、石丸候補は広島県安芸高田市長に当選したものの、任期途中で辞職、二度目の選挙戦に臨んでいない。しかし、具体的な公約を示さず、自分に関するイメージを振りまくだけの選挙運動は、有権者から見透かされる以前に、民主的選挙制度の否定である。

 選挙は有権者が統治の代理人を選ぶ制度である。公約は候補者が有権者に示す委任の許可だ。候補者は自分が委任される代理人としていかにふさわしいかを公約で有権者にアピールする。選ばれた代理人は政治家としてその委任状の項目を果たそうとするが、そこにはある程度裁量が認められている。しかし、その結果に対して代理人は、選択したのが自身である以上、有権者に説明を含め責任を取らなければならない。

 有権者がろくに公約を読みもせず、代理人を選んでいるとしよう。だとしても、候補者にはそれを提示する必要がある。公約を守らないこととそれを示さないことは根本的に異なる。公約を明らかにしていれば、結果について有権者は少なくとも守っていないと不満を口にし、裁量も含めて説明を要求することができる。場合によっては再選に応じないだろう。しかし、公約を示さないことは白紙委任状を求めることと同じである。その代理人を選んだら、生じた結果はすべて有権者が被ることになる。代理人は説明する必要もない。有権者が公約に基づいて投票先を決めていないとしても、候補者がそれを示さないことは選挙という制度の否定である。

 政治家は政策の選択肢の中から一つを選んで実行に移す。他の可能性を捨て、それを選択した以上、そこから生じる結果の責任を果たさなければならない。価値観が多様であるから、これしかないという言い訳は責任逃れの方便だ。実施した政策に対して批判されることに不満を口にする者は政治家の資格はない。

 従前の政治家は公約なんか守っていないし、有権者もそれを求めていないから自分がそれを示さないで何が悪いという認知行動は機会主義的である。政治が堕落しているのだから堕落した選挙をやってもかまわないとするなら、それは政治を悪化させるだけだ。政治をよくするために立候補する姿勢と矛盾し、出馬自体に意味がない。むしろ、それはすべてを利用して私益を得ようとする道具主義だ。こういう人物には他者への共感力はない。

 それは安芸高田市長時代にすでにみられる。石丸市長は、議会による副市長ポスト削減のための条例改正案可決に対して、議員定数の半減を要求している。彼は『石丸伸二「恥を知れ、恥を!」発言は、3日前から練っていた』において、その論拠について次のように述べている。

 私の取った手法は、反転可能性テストです。自分と他者が反転しても、受け入れられるか否かのテストです。ハーバード大学のサンデル教授の『これからの正義の話をしよう』でも触れられているとおり、「正義」の概念を分析する際にも用いられます。

 「恥を知れ!」は2019年の安倍晋三首相問責決議案への反対討論における三原じゅん子参議院議員の発言を思い出すが、それはともかく、このテストは自分が他者の立場になって考えるという思考実験である。「正義」、すなわち社会的公正を吟味する際に、自身を相対化する態度だ。ところが、彼は自らを絶対化して他者に同一化を求めている。理解が恣意的で、これでは倫理の議論にならない。彼は倫理思想も機会主義的・道具主義的に利用する。

 以上の通り、石丸候補の次点は政治の堕落の証である。公約を示さず、ここ四半世紀の日本政治の堕落を寄せ集めて自分のイメージを作り上げ、二度は通用しない手法で有権者に訴える。その彼が165万票を獲得したことは望ましことでないし、評価すべきことでもない。政治の堕落がさらに進んだだけだ。

 実際、選挙後、石丸候補は何度かテレビ出演しているが、その発言は「不適切にもほどがある」というものばかりだ。例えば、彼は、人口減対策を尋ねられた際、「今の社会の規範では無理」としながら、「一夫多妻制」を挙げている。しかし、これは、日本史を確かめると、人口増加ではなく、後継者を確保するために利用されている。しかも、今日の少産少死社会と違い、当時は多産多死である。彼の選挙戦同様、概念に関してなんとなくのイメーを持っているだけで、内容を理解していない。

 現実の内的関係に寄与する提案は妥協的・保守的にならざるを得ないから、それに囚われない自由な発想が新たな見方を提供することは確かだ。ただ、その場合、理論として体系的完成度が必須である。論理的に整合性があるので、現実を相対化できる。現状追認では現実が想定外の変化した場合に対応できない。だから、現実に対するメタ認知である批判的思考が不可欠である。学者や批評家はそれに基づく体系的理論から多数の選択肢を用意する。底が政治家との違いだ。思いつきや思いこみで発言することは学者や批評家はもちろん、政治家の仕事でもない。

 民主的選挙を台無しにしているのは石丸候補だけではない。ポスター問題は言うに及ばず、一見そのように思われていない候補にもそれが認められる。安野貴博候補がそうである。彼はAIを政治に活用することを掲げて都知事選に立候補、支持者からの要望に応える「アップデート」と称して選挙期間中に公約をコロコロ変えている。しかし、それは準備不足を露呈しているだけだ。また、先に述べた通り、公約は委任状であるから、それを頻繁に変更するようでは代理人としての責任感に乏しい。

 安野候補は、松島京太記者の『東京新聞』、2024年7月14日 06時00分配信「AIを力に都知事選に挑んだ安野孝弘さん 『GitHub」の実験で得た『デジタル民主主義』への手応え」において、自身の試みについて次のように述べている。

 安野さんが「候補者の考えを一方的に伝える場になっていた」と従来の選挙を問題視する理由は、「投票のみでは数ビットの情報しかやりとりできていない。しかもそれは4年に1度しか実施されず、有権者は政治不信に陥ってしまう。それを解消したい」と考えるからだ。

 すでに述べた通り、政治は選択である。政治家には政策を選んだ責任がある。それは重い。と同時に、有権者にもその代理人を選んだ責任がある。これも重い。だからこそ、選択の機会が「4年に1度」に設定されている。「4年に1度」なのだから、選挙を真剣に考えるべきだ。政治の選択責任が重いのは当然である。災害復旧や開戦も政治選択なのだから、軽いはずがない。「ファストファッション」の時代だからと言っても、「ファストポリティクス」は認められない。有権者の責任を軽くすることよりもその重さを自覚する方が「政治不信」の払しょくにつながる。

 有権者は現代民主主義体制において「主権者」である。だから、民主主義を真面目に考え、真面目に投票すべきだ。しかし、石丸候補の得票にそうした真面目さの反省的思考はない。事実、事務局長はあまりに無内容な演説にもかかわらず石丸候補に有権者が好反応を示すことに戸惑っている。既成政党への不信感は石丸候補に投票することの言い訳にはならない。選挙の堕落を利用しただけの候補者への投票はそれに加担することでしかないからだ。だいたい既成政党への不信は今に始まったことではない。90年代の新党ブームから続いている。既成政党への不満がメディア上で語られると、新党が登場する。当初は支持もある程度高く、得票するものの、しばらくすると、それも既成政党と見なされ、支持を下げて行く。既成政党不信は不真面目な政治を許す不真面目な主権者にも責任がある。有権者は民主主義を真面目に考え、真面目に選挙に参加し、主権者としての責任を重く引き受けるべきだ。そのような主権者の間からこそこんな政治家が登場する。

 政治とは、情熱と判断の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。…人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で、いますぐ武装する必要がある。そうでないと可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が-自分の立場から見て-どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
(マックス・ウェーバー『職業としての政治』)
〈了〉
参照文献
マックス・ウェーバー、『職業としての政治』、脇圭平訳 岩波文庫、1984年
堀内勇作、「マニフェスト選挙を疑え:2021年総選挙の計量政治学」、『日経ビジネス』、2021年12月8日配信
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/120200011/
石丸伸二、「石丸伸二『恥を知れ、恥を!』発言は、3日前から練っていた」、『日刊SPA!』、2024年7月11日 8時46分配信
https://nikkan-spa.jp/2002593
小林圭、「(「受け皿」になるために)都知事選、石丸氏165万票の理由 選対事務局長・藤川晋之助氏」、『朝日新聞DIGITAL』、2024年7月13日 5時00分配信
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15982331.html
松島京太、「AIを力に都知事選に挑んだ安野孝弘さん 『GitHub」の実験で得た『デジタル民主主義』への手応え」、『東京新聞』、2024年7月14日 06時00分配信
https://www.tokyo-np.co.jp/article/340005
「都知事選躍進の石丸伸二氏『自民党は限界なのかな』『トップに据えるなら入ってもいい』」、『産経新聞』、2024年7月14日 17時30分配信
https://www.sankei.com/article/20240714-FI3USY353RFOLFKKLYB7CFXEH4/
「泉房穂氏 石丸伸二氏の“子育て政策”一夫多妻制などに『“理解を超えた方”であることは間違いない』」、『スポニチ』、[ 2024年7月15日 8時46分配信
https://www.sponichi.co.jp/society/news/2024/07/15/kiji/20240715s00042000133000c.html


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