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民営化とプライマリー・バランス(2006)

民営化とプライマリー・バランス
Saven Satow
Feb. 11, 2006

「大丈夫抱いてやる。俺ら高速道路の星」。
王様『高速道路の星』

 カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』の中で、「交通」によって歴史が変動すると述べています。彼らはこの概念を広義で用い、それは人・物・カネ・情報の移動を意味します。

 しかし、日本では、将来、交通の機能を十分に果たしていない道路が歴史を変えるかもしれません。まったく採算の見通しのないまま、高速道路整備計画の9342kmを全部作ることになったからです。道路公団の民営化は無駄な高速道路建設を中止にし、通行料金を引き下げることにつながるはずだったのですが、この結果が「改革」ということになっています。思想史上の二人の巨人も、これを耳にしたら、作品に註を加えたかもしれません。「なお、日本では非交通の道路が歴史を変えている。何事にも例外はつきものである」。

 『ミカドの肖像』の作家は、確かに建設することにはなったが、20兆円かかる予定が10兆円になったのだから、大きな成果だと温情主義的に主張しています。しかし、これでは、うちには42インチのテレビがあるし、今は余裕がないから要らないと言っている客に、20万円のところを10万円に勉強しているのだから、得だと説得しているようなものです。販売員にならなかったことは、少なくとも、彼にとっては幸いです。

 『ペルソナ』の作者は産業連関を無視したたんなる費用の問題に高速道路建設を矮小化していますが、それはあまりにも素朴です。日本は人口が減少し、居住地域も縮小しています。自動車の総数もそれに比例して減っていくでしょう。また、産業構造も、世界的な産業の再編成が振興していますから、変動していくに違いありません。高速道路は手段であって、目的ではありません。産業構造や人口構成などと関連させて道路は建設されるべきです。なるほど、人口が減少しても、流通のための産業道路は必要ですが、それが高速道路である必然性はないのです。

 現在、日本の国及び地方の公債残高はGDPに対して150%で、これは先進国最悪です。1990年段階では、アメリカと同程度の70%でしたから、この15年間でいかに悪化させたかがわかります。

 また、最近ようやく一般にも知られるようになりましたが、日本の貿易黒字が実質的にそれほど効果のあるものではありません。この黒字がアメリカの国債の購入などにより合衆国に還流されているからです。歴史を振り返ってみても、植民地インドは大英帝国相手に巨額の貿易黒字を計上していながら、90年代の日本同様に、経済が低迷しています。貿易黒字に関しては、額面を鵜呑みにするのは危険です。

 しかも、2000年代初頭の国及び地方の一般政府レベルにおけるプライマリー・バランスの赤字幅は、対GDP比で、5%台であり、縮小傾向は見られません。このプライマリー・バランスは将来的な財政政策の維持可能性を意味します。通常の財政赤字は歳出マイナス税収によって定義されますが、プライマリー・バランスの赤字幅は歳出から税収と公債の利払い費を差し引いた値です。単年度の財政赤字ではなく、中長期的な財政赤字の累積を問題にしているのです。

 プライマリー・バランスの赤字幅が年々縮小しないと、財政破綻の危機が迫っているということになります。長野県などを除く多くの自治体はプライマリー・バランスが赤字で、いつ財政破綻を迎えてもおかしくない状況なのです。

 この現状にもかかわらず、日本の国債の金利がまだ先進国レベルでとどまっているのは、市場が日本にはまだ増税の余裕があると見ているからです。いかに好景気になったとしても、二桁成長は望めません。消費税を10%以上にすれば、その赤字も解消できるだろうというわけです。無駄な支出を削減せず、政府は自らの無策を納税者に押し付けられると見込んでいるのです。

 政府は、道路公団を民営化すれば効率化が進み、納税者にも大きなメリットがあると主張してきました。しかし、民間活力の導入は、本来、競争原理による資金運用の効率化=健全化に限定されるものではありません。選挙の限界を補う機能があるのです。

 財政政策の改善は政権交代だけでは不十分です。政権交代があったとしても、次の選挙までの間、与党の財政政策を持続的に監視することは困難です。その上、選挙の争点は財政問題に限りません。何しろ、「郵政解散」と訴えて小泉純一郎首相は衆議院を解散したくらいです。高速道路建設の是非はその選挙の争点ではありません。選挙の限界を補完するどころか、その欠点を悪用するために、高速道路建設計画においては民営化が用いられたと言って過言ではありません。

 民間企業は利益を上げることが目的です。一方、政府の目的は国民生活の向上など抽象的です。高速道路は準公共財ですから、赤字の垂れ流しはともかく、利益を上げることが目的ではありません。民間経営の理論や方法が公的機関にそのまま適用できるわけではないのです。素朴な民営化論は官と民の存在意義の違いを無視しています。

 民営化の効用に情報公開の促進と外部からの経営の漢詩が挙げられます。新自由主義に基づいて官から民へと改革を行うとしたら、それは科学的根拠を欠くイデオロギーにすぎません。それが民営化すべきかどうかはゲーム理論や情報の経済学といった現代経済学によって検証される必要があります。

 ポイントは情報の公開と経営に対する監視です。民営化されると、逆に、私的活動という理由で情報が公開されなくなる危険性もあります。道路公団の民営化からはこの匂いがしてきます。経済学に「高速道路の定理」があります。これは、大雑把な知識で走り出し、細かな情報は目的地に近づいてから調べればいいという考えです。高速道路をめぐる政策で、そんな態度ではシャレになりません。民営化の前にこの部門に対する支出のルールを決めることが効果的だったと言わざるを得ません。

 かつて公共事業が国家財政を破綻にまで追い込んだことがあります。

 1630年、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの嘆きはとまることを知りません。愛妃ムムターズ・マハールが彼を残して天に召されたからです。そこで、シャーは、マハール妃を追悼する施設の建築を決意します。帝国内のみならず、ペルシアやアラブ、ヨーロッパから2万人もの職人を集め、1632年に着工し、1653年、史上空前の美しさを備えた大宮殿タージ・マハール(Taj Mahal)を完成させるのです。

 素材を見るだけでも、その豪華さが伺われます。タージ・マハールを造るための建材は、インド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたと言われています。大理石はラージャースタン地方、碧玉はパンジャーブ地方、翡翠は中国、トルコ石はチベット、ラピス・ラズリはアフガニスタン、サファイアはスリランカ、カーネリアンはアラブから持ち寄られています。全体で28種類もの宝石・鉱石がはめ込まれています。

 その不世出の美を讃えるのにふさわしく、建築様式においても、各地の手法やデザインが融合しています。

 聖人でも、王でもない一人の女性のために一国がこれほどの追悼施設を建てるのは史上初の事業です。

 しかし、この大宮殿建設は、さすがの帝国にとっても、財政的な負担となります。当時の欧州全体を上回るGDPを持っていたムガル帝国の国庫が底をついてしまいます。シャー・ジャハーンの治世はムガル帝国の絶頂期にあり、その全精力をたった一人の女性のために傾けて建築されたのがタージ・マハールです。計画では、川をはさんで白大理石と黒大理石の墓廟が並び、その間を大理石の橋で繋ぐことになっていましたが、変更を余儀なくされます。対岸には現在も整地された基底部が残っています。

 晩年、ジャハーンは息子のアウラングゼーブによってアグラー城に幽閉され、タージ・マハールを毎日眺め涙にくれてすごしたと伝えられています。アウランゼーブ帝は、父を死後、ムムターズ・マハールの隣に葬ることを認めます。タージ・マハールには、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハールの棺が並べて安置されています。

 アウランゼーブは、父と違い、宗教的には狭量で、イスラム教スンニ派の厳格な信者であり、それ以外に対して迫害を加えます。そのため、多くの反乱を招き、父親以上に、帝国の財政を悪化させ、衰退を速めてしまいます。結局、アウランゼーブは後世には父ほどの遺産を遺していません。

 タージ・マハールは人類共通の遺産として、1983年、ユネスコの世界遺産に登録されています。毎年、数多くの観光客が足を運んでいます。近年、排ガスによる直接的な汚れのほか、酸性雨により大理石が溶解する現象などが報告され、タージ・マハールの劣化が核にされています。そのため、保護への活動が積極的に行われています。と言うのも、それは国家を超えた人類のものだからです。

 廃れた日本の高速道路が人類共通の遺産として認定されることはないでしょう。タージ・マハールはムガル帝国が滅亡した後も、人々を魅了し続けています。美しきマハール妃ではなく、狭量で、倣岸無知、強欲、強弁を口にする醜い連中の追悼施設に足を運ぶ人がいるはずもありません。結局、その愚かさの見本をユーモアによって芸術作品に変えられる現代アーティストの出現を待つほかないかもしれません。

 しかし、そうするにも、かの長野県出身の作家のイマジネーションでは無理でしょう。彼は、2005年に行われた政府税制調査会における所得控除議論の中で、何もせず、子どもも産まない専業主婦が多くなっているとし、そのような人を「ごろごろしている主婦」、「パラサイトワイフ」、「変な生命力のない人たち」などと評しています。こんな女性蔑視が狭量さから発せられていることは言うまでもありません。それが何をもたらしたのかは歴史が教えてくれるところです。
〈了〉
参照文献
井堀利宏、『財政学』、放送大学教育振興会、2005年
清水義範、『永遠のタージ』、角川文庫、1999年
アンドレ・クロー、『ムガル帝国の興亡』、岩永博他訳、法政大学出版局、2001年

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