武田泰淳の『わが子キリスト』、あるいは政治的人間の記録(2)(2007)
3 ローマのユダヤ人
当時のユダヤ属州は分裂し、混迷を極めている。何が起きてもおかしくないという状態である。
バビロン捕囚が終わった後も、ペルシア帝国領内にとどまるユダヤ人も少なくなく、また、エジプトや小アジアなど各地にユダヤ・コミュニティが形成されている。彼ら、すなわちディアスポラ・ユダヤ人はヘレニズム文化と出会うことになる。この異国のユダヤ人たちはヘブライ語を解さないものも多く、アレキサンドリアで、ギリシア語訳聖書『セプトゥアキンタ』が編纂されている。ギリシア語は、当時、地中海世界で広く使われていたため、ユダヤの聖典に初めて接した異教徒の中からユダヤ教への改宗者が続出する。反面、ユダヤ教は高度に発達した体系的な自然哲学に触れ、急速に洗練されて、抽象的な思想へと展開していく。
けれども、こうしたユダヤ教のヘレニズム的概念による説明は、次第に、ユダヤ教のアイデンティティを危うくする。セレウコス朝シリアとの抗争も、元々は、ヘレニズムとヘブライズムの対立が一因である。紀元1世紀前半、アレキサンドリアのフィロンはユダヤ教をプラトン哲学によって再構築しようとし、「神はロゴスによって世界を創り、ロゴスをもって姿を現わし、ロゴスをもって人と交わる」と唱えている。この説はあまりにヘレニズム的であり、一般のユダヤ学者には受け入れられるものではない。その後、ローマ帝国による弾圧のため、アレキサンドリアのユダヤ・コミュニティは事実上消滅したが、フィロンの意見が『ヨハネによる福音書』の冒頭部分に影響を与えたように、ヘレニズム的ユダヤ教はキリスト教に引き継がれていくこととなる。
こうしたユダヤ社会の多様化は内部での厳しい対立を招いている。紀元1世紀頃、神殿が破壊される前のエルサレムでは、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、サドカイ派とパリサイ派、エッセネ派の三大勢力が争っている。特に、サドカイ派とパリサイ派はユダヤ・コミュニティの自治機関であるサンへドリンを支配し、お互いに一歩も譲らない。これは大祭司を長とする70人から構成され、議会であると同時に、最高法院廷の機能も果たしている。特徴的な点としては、満場一致の議決は無効とされることがあげられる。背景や利害が異なっている人が集まっているのに、全会一致となったとすれば、一時的な感情に流されたか、裏でグルになっているかのいずれかだと考えられるからである。この原則が破られたことが一度だけある。それはあのナザレの男を査問したときである。
サドカイ派の支持者は支配者階級と結びついた神殿貴族や富裕商人である。彼らは神殿での犠牲祭儀を重視し、書かれた法、すなわちトーラーにのみ規範の根拠を認める。魂の不死や肉体の復活を律法にその記述が見たらないという理由で斥けているように、現世肯定主義であり、社会秩序に関しては現状維持を望み、ローマとの関係は妥協やむなしという保守派である。一般民衆からの評判は芳しくない。
一方、パリサイ派は、時代の変化を考慮し、トーラーのみならず、口伝律法にも権威を容認する。律法を柔軟に解釈し、ユダヤ教を新しい社会に適応させることを志向する。パリサイ派は、後にイエスから激しく批判されたため、律法を金科玉条にする教条主義者あるいは排他的で狭量な形式主義者と見なされることもある。だが、実際には、イエスの教えに近い。また、神殿だけでなく、シナゴーグを重要視している。ラビはトーラーの解釈者であると同時に教師であり、シナゴーグはその律法を教育する場所である。こうしたパリサイ派は一般民衆から秘録支持されている。
ただし、両者共その出自がハスィディームであり、ヘブライズムの純化運動である点は共通している。パリサイ派の拡大解釈路線は、硬直した態度をとり続ければ、時代遅れあるいは社会の実態に適合しないとして律法全体が無視され、異教的な教えにユダヤ教が乗っ取られてしまうことへの防御策にほかならない。実際、彼らは呪術や瞑想、神秘主義体験などをヘブライズム的ではないとして排除している。
第三の勢力エッセネ派は熱狂的なメシア待望論者である。彼らは光と闇、生と死、善と悪、正義と不正などの二項対立が激化していき、その果てにメシアが到来し、光の側に勝利をもたらすという終末観を信じている。僧院を築き、それを本部としたネットワークを形成し、伝統的なユダヤ社会とは一線を画す。彼らは自分たちこそ神との新しい契約、すなわち新約を結んでいるという強烈なエリート意識を抱き、それ以外の宗派を旧約の徒と批判している。
『わが子キリスト』では、エッセネ派に関する記述はない。その代わりに、顧問官の暗殺を企てる熱心党の言及がある。このグループも、エッセネ派同様、メシア待望論者の一種であり、宗教的熱心さから民族独立を志向するセクトである。ゼーロータイと呼ばれる彼らは目的のためには手段を選ばず、テロリズムさえ辞さない。メシア主義を標榜する無数のセクトやコミュニティがあったが、その構成員は、概して、少数にとどまっている。メシア待望論者の中で有力という点では、エッセネ派の方が上であり、三派対立として当時のエルサレムを捉える場合、エッセネ派を代表格とすることは妥当である。
メシアは、元々は、宗教的預言者に限定されておらず、サウルやダビデ、ソロモンといった世俗的な政治権力者もそう呼ばれている。当初、メシアはダビデの家系に限定されていたが、キュロスがメシアと扱われているように、その資格は拡大されていく。終末論や救済願望といった黙示思想が盛んなのは、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけてであり、ユダヤ教徒がセレウコス朝シリア及びローマによる過酷な圧政下に置かれている時期と重なる。
このメシア信仰と深く結びついているのが「復活」である。のうのうと悪人がのさばっている反面、善人が彼らに殺されていく。『ダニエル書』はこの不条理さに対して「復活による神の裁き」を提起する。神はすべてのものを復活させて、裁きを下す。その際、よき人は永遠の生命を与えられる。
夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。
(7章13~14節)
彼はいと高き方に敵対して語り
いと高き方の聖者らを悩ます。
彼は時と法を変えようとたくらむ。
聖者らは彼の手に渡され
一時期、二時期、半時期がたつ。
やがて裁きの座が開かれ
彼はその権威を奪われ
滅ぼされ、絶やされて終わる。
天下の全王国の王権、権威、支配の力は
いと高き方の聖なる民に与えられ
その国はとこしえに続き
支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。
(7章25~27節)
結局、この三派対立は、神殿の破戒によるユダヤ人の離散と共に、終わりを迎える。彼らの間でパリサイ派のユダヤ教が受け入れられ、サドカイ派は消滅する。また、エッセネ派などのメシア待望論セクトはローマに対するユダヤの抵抗運動に加わり、壊滅している。現在にまでつながっているユダヤ教はこのパリサイ派の流れをくむものである。
4 イエス・メシア化計画
この不穏な空気漂うユダヤ属州を親ローマ的にし、支配を容易にするために、ローマ駐留軍の最高顧問官は、ユダヤ通との評価の高い「おれ」を呼び、次のような秘策を打ち明ける。
「もしも、ユダヤ人どもの中に、たよりになる指導者が一人でも存在するならば、連絡してそ奴をわれらの意志どおり動かし、ユダヤ人どもをわれらの意志どおり支配することができる。もしも、その指導者がわれらの命令にしたがうことを拒絶するならば、われらはそ奴を消してしまえばよろしい」
と、顧問官殿はおごそかに言われた。
「ただし、たよりになる指導者が彼らのあいだに一人として見出されず、ただただ、信頼しても信頼しなくても結果は同一になるていの、うぞうむぞうの親分衆のみが、ユダヤの民の上層部としてむらがっているのにすぎないとするならば、われらはいかになすべきであるか。強力なる指導者を失った彼らの仲間うちが、そのためどのように乱れに乱れようとも、われらは喜んだり悲しんだり気にかけたりする必要がないが、その乱れ方がある一つのけしからぬ方向に傾き、それによってわれらの勢力が損害をうけぬようにするための警戒はおさおさ怠ってはならぬ。警戒するだけでは足りぬ。むしろ、積極的にこちらの好む方向へ、奴らの乱れを導いてやある明確な方針、策絵約を打ち出さねばならぬ。つまり乱れに乱れる奴等のまっただ中に、ハッシとばかり強靭なる杭を打ちこみ、それにわれらの太い手綱をゆわえつけねばならぬ。その杭とは何か」
怪鳥のくちばしの如く突き出した最高顧問官殿の鼻の両わきで、穴の如くおちくぼんだ両眼がらんらんとかがやきはじめるので、おれはかしこまざるを得なくなる。
「べたべたとわれらにねばりつく妥協主義者。もうけ仕事にはぬけ目のない密偵、内通者、裏切者。古くさい権威を看板にして、どうやら小グループの声名を保っている旧式小頭。それらは、とても丈夫と保証できる『杭』にはなりえぬのじゃ。わしらは、いいかな、最新式の政治学の尖端を行くわしらは、今までとは全く種類のちがった、今まではとても指導者とは思われなかったような、斬しんなる『指導者』を奴らの中から発見せねばならんのじゃ」
「そんな者が、発見できますでしょうか」
「発見するということは、つまるところ、育てあげ製造するということなのだ。まぼろしの指導者、まぼろしの予言者、部落民どもの夢とねがいの根源をなす『力』を、奴らにかわってわしら自身の手で、彼らの目の前にありありと出現させてやるのだ」
ユダヤ属州は、ローマから見れば、極めて小さく、経済的・軍事的にも必ずしも重要ではない。けれども、ローマはユダヤ属州の問題をドミノ理論として認識している。ユダヤ属州の反乱を押さえこめなければ、他の諸民族もローマを恐れなくなり、独立運動の火が各地に飛び火する危険性がある。見せしめという意味でも、ローマはユダヤに断固とした態度で臨まねばならない。
この「杭」として誰か適任者がいないかと尋ねられた「おれ」はイエスを推薦する。顧問官もすでにイエスに目をつけていたため、プランBを考えることもなく、その案は了承される。イエスのキリスト化計画、すなわちパイル・プロジェクトがこうして隠密裏に始まる。
最高顧問官は「奴隷の身分から、奴隷をこき使う上層部にまではい上がった」。被支配者から支配者になりあがったため、支配=被支配の力学・心理学に精通している。イエスの教団にスパイを忍ばせて、情報収集させながらも、「おれ」にはイエスの肉親との接触にとどめさせ、預言者に直接関与することを禁じる。
大国による傀儡があからさまな政権は、新しく現われても、民衆から支持されない。アメリカ政府は、CIAを使って、イランのモハンマド・モサッデク首相を失脚に追いこみ、チリでサルバドール・アジェンデ大統領をクーデターで死に至らせたが、その後に登場した親米政権が民衆の心をとらえて放さなかったとは言えない。むしろ、非人道的な手段で反対派を弾圧し、売国奴や人殺しと罵られてさえいる。イエスはローマの指示通り動いているわけではない。むしろ、イエスにローマは何ら要求を出していない。ローマとしては、監視下に置きながら、イエスを自由に活動させ、その言動を事後的に利用する戦術をとっている。
最高顧問間は自らイエスの言葉に手を加える。作中では、次の二つの福音書が伝える言葉が例として挙げられている。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」(『マタイによる福音書』5章39節)。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(『マルコによる福音書』12章17節)。元来のイエスの言葉は、前者が「顔を殴られたら、だまって殴った相手から離れ去れ」であり、後者は「神のものは神へかえせ」である。しかし、これでは、顧問官にとっては、不十分である。ローマの支配を正当化させるために、イエスの言葉を脚色する必要がある。
しかし、このプロジェクトを成功させるためには、ローマ人には決定的にユダヤ人に関する知識が欠けている。イエスが「神の子」だと聞いて、「おれ」はジュピタア(ゼウス)が人間の女を孕ませた物語を思い起こしている。「おれ」がこのミッションの担当者に選ばれたのは、彼が「ユダヤ通」だからだが、ローマ人がユダヤ教を理解していないことを端的に示している。
イエスをメシアにする計画を考えている人物が、ローマ側だけでなく、ユダヤの方にも一人いる。それがユダである。彼は商人出身であったが、イエスの教えを知ると、彼の信者となり、12使徒と呼ばれる教団の最高幹部の一人と目されている。
ユダはイエスをローマからユダヤ人を解放する政治的メシアと言うよりも、分裂していたユダヤ・コミュニティを統合する存在と考えている。既存の利害関係と無縁のイエスによってユダヤ社会はまたまとまれるのではないかと期待し、彼の教団に加わる。ユダはユダヤ経済界の次のリーダーと見なされる極めて優秀な人物である。商人や農場主にまとまるように働きかけ、神殿貴族や富裕層との調整を密かに行っており、フィクサーと呼べるだろう。
しかし、実際には彼の計画が失敗に終わることは日を見るよりも明らかである。富裕層はサドカイ派やそのシンパであって、パリサイ派に近い主張のイエスを受け入れるはずもない。むしろ、イエスを擁護する主張をすればするほど、ユダは保守派の利益を売り渡す裏切者と見なされ、イエス以上に憎まれてしまう。
パリサイ派にしても、イエスの戦略的ともとれる自分たちを批難する説教を耳にしては、ユダの案には乗れない。共産主義者が社会主義者を批判し、自らとの違いをアピールするように、イエスは説教の内容自体は近いはずのパリサイ派を厳しく糾弾する。その反パリサイ派の態度を改めない以上、イエスをリーダーと認めることはできない。
エッセネ派などのメシア待望論者は意識や理念が先行しすぎて、律法の解釈を政策として練り上げ、積み重ねていくことをおろそかにしている。妥協などということは彼らにはありえない。理念を貫徹することがそのアイデンティティだからである。
最も現実的なのは中道のパリサイ派を軸に、左右の穏健派をとりこみ、過激派を孤立させることである。それはイエスを中心にして、新たなコミュニティをつくり、そちらに今の対立情況にうんざりしている人々を吸収していくことだが、かなわぬ夢である。
分裂状態を克服するのに必要なのは共通の価値観・イデオロギーではなく、共有する利害である。ハスモン朝以前のハスィディームが手を組んでいたのはシリア軍という共通の敵がいたからである。ユダは、ところが、イエスでまとまることが共通の利益につながるという理由を提示しきれない。
イエスは最高顧問官の狙い通りにも、ユダの思惑通りにも機能しない。イエスはユダヤの統合をもたらすどころか、既存の宗派勢力から憎悪の対照とさえ見なされている。イエスの殺害ないし刑死が不可避となってくる。それは、「おれ」から見ても、ユダから見ても、時間の問題にすぎない。もはやイエスは生きていることでは利用価値はない。だからと言って、今さらイエス以外の選択肢をとれるはずもない。
最高顧問官はイエスを真のメシアとするために、他の預言者を間引きさせている。顧問官は預言者以外の選択肢をまだ残しているけれども、むしろ、彼の死を政治的に利用する方が現実的である。ユダは、そのためには、復活の神話が必要だと考えている。死んでも復活すれば、それでいい。一度死ねば二度と死ぬことはない。復活はイエスの最後の奇蹟であり、誰にも起こせなかった奇蹟であり、それによって彼は世界の各地で語り継がれていく。
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