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学校と自殺(2006)
学校と自殺
Saven Satow
Nov, 13. 2006
「私は小さな世界。元素と天使の霊から巧みにつくられている」。
ジョン・ダン『聖なるソネット』
今日もまたやりきれない出来事が伝えられています。児童・生徒の子どもたちはいじめを苦に、教員を始めとする大人たちは必修科目の履修単位不足やいじめ問題への対処に追い詰められ自ら命を絶っていきます。人を育む場であるはずの学校が人の命を奪っているのです。学校から血の匂いが漂っています。
一度や二度、自殺を考えたことがある人は、子どもであれ、大人であれ、少なくないでしょう。自殺に囚われる精神状態自身は異常ではありません。
しかし、いじめられて死に追いこまれた子どもたちは、精神的な死をすでに感じていたのかもしれません。と言うのも、いじめは「一種の精神的殺人であって、最大級の暴力に属する」(森毅『弱いものいじめは弱いものの弱さ』からです。自殺ではなく、自死がしばしば使われるのもそのせいです。いじめる子といじめられる子がいるのではなく、「最大級の暴力」の加害者と被害者がいます。
いじめはすべきではありません。いじめることはたんに自分の惨めな生き難さの反転、すなわちルサンチマンを晴らしているにすぎず、いずれ「精神的殺人」の加害者として責任が圧し掛かってくるからです。自分の弱さが耐え難いとしても、それを直視するほかありません。
けれども、いじめを子どもたちだけの責任に押しつけるべきではないでしょう。いじめは関係によって生じます。それは、一因として、学校をめぐる権威主義や均質化への圧力が促しているものなのです。
この「精神的殺人」の最大の加害者は政治にほかなりません。政治が自分の弱さを自覚し、絶望感を覚え、その惨めさが身に沁みない限り、加害者となり続けていくのです。子どもの将来を奪いながら、政治に未来があるわけがありません。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」という教育基本法の条文を変えている場合ではありません。その変更に熱心な安倍晋三政権はルサンチマンの政治、もっとはっきり言えば、死を呼ぶ政治あるいは殺人政治です。
「それでぼくは、きみが自殺を考えたことがあるにせよ、あるいは将来にそうした機会に出あうにしろ、それを異常で深刻な事態と考えるより、普通のこととして受けとめてほしい。そして、人生そのものは深刻であるにしても、自殺の原因とされがちなきっかけについては、どれもたいていつまらないことなのだ。それを、あほらしいと思える、さめた心を養ってほしい」(森毅『自殺を考えたことがあるか』)。
〈了〉
参照文献
森毅、『ものぐさのすすめ』、ちくま文庫、1994年