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服を着る(2025)

服を着る
Saven Satow
Feb. 16, 2025

「言葉は人の才覚を示し、
行動は人の真意を示す」。
ベンジャミン・フランクリン

 「ちょっと待って。右腕が入らない」。

 そう注文しても、母は思ったように動いてくれない。母はグレーのジャケットを着ようとしているのだが、左側すでにすんでいるものの、右袖がぶらぶらし、右腕はその入口を見つけられない。手助けを求められた私も、うまく介助ができない。

 介護離職して、心機一転に、母の認知症ケアに臨んだのだが、毎日戸惑うことの連続である。認知症と言うと、記憶障害がイメージされるけれども、実際にケアを始めると、予想もできなかったことに遭遇している。

 まさか上着を着る行為に困惑することになるとは想像すらしていなかったことだ。母は左腕をウールのジャケットの袖に通したまま、右手が迷子になっている。腕を掴んで右袖の入り口に近づけようとするけれども、届かない。ただ、粗鬆症もあるので、右腕を私が掴んで無理に後ろに引っ張ることは危険だ。

 私は上着を着る行為を意識して実行したことなどない。特に考えることもなく、一連の動作を行っている。なぜ母はうまく上着を着ることができないのかを考えるため、自分もその行為を再現することにする。

 自動的に続けてきた行為を改めて考え直すことは、かえってこんがらがってしまう。そこで、私は、落ち着けと自分に言い聞かせて、流れを区切って確認することにする。

 早速、私は茶色のジャケットを脱ぎ、改めて、右袖に右腕を入れる。しかし、完全には腕を通さず、右肩に袖山が乗らないようにする。次に、左腕を動かして左袖の入口を探す。それは身体の後ろの低い位置や横にあるので、すぐに見つかり、腕を袖に通す。最後に、二人羽織の状態の上着を、両肩を軽く回して、引き上げ、両手で着こなしを整える。

 母の姿を見ると、左腕を完全に左袖に通している。私もそれを真似てみることにする。

 右肩が袖山に乗っていると、左袖の入口が身体の後ろの高い位置に来てしまう。これでは袖に腕を入れるのが難しい。

 子どものように、肩関節が柔らかであれば、その姿勢でも着ることができる。しかし、加齢と共に肩関節が硬くなり、腕を後ろに回すのが困難になっているので、それはなかなかできない。しかも、母は、1枚にしてはどうかと促しても聴き入れず、カーディガンを2枚重ね着している。

 ただ、上着には苦労しているのに、母はシャツやカーディガンを自分一人で着ている。シャツは生地が薄いし、カーディガンは伸縮性があるので、片方の腕を袖に完全に通した後でも、着ることができる。けれども、上着は厚みがあり、伸び縮みも乏しいので、その体勢から着衣することは難しい。

 私は服を着る手順を形式化して説明した上で、またジャケットを脱いだ後、それを実演して見せる。

 認知症はワーキングメモリーが制約されるので、手順通り行為を実行することが難しい。事実、母はカーディガンの上にシャツを着たり、靴下を5足重ねて履いたりすることがある。たとえ上着を着ることでも、前の行動を記憶して、次を予想する過程がある以上、同様である。

 母は私に言われた通り、左腕を左袖に通す。しかし、腕が袖から出る前に止めると、落ち着かないせいか腕を完全に通そうとしてしまう。仕方がないので、また着方を説明した上で、模範演技を見せて真似をするように誘う。

 母はなんとか両腕を袖に通す。私が褒めると、母は笑顔になる。両肩を回すことはもはやできない。その代わりに、母は肩を上下させて位置を整えている。

 ただ上着を着るだけなのに、他者に教えることは思いのほか難しい。暗黙のうちに行なっている動作の手順を言語化するには、自分を対象化する認識が欠かせない。それはロボットの動作をプログラムすることに似ている。ロボットが上着を着るためには、この一連の過程を一つ一つ手順として指示しなければならない。だが、人間はそれを意識せずに行なっている。人間の行動の言語化はロボットの開発につながる。

 認知症はしばしば暗黙知を形式知にすることを促す。それは自明な人間の行為について再検討することだ。母は依然として、心機一転したはずの私に、子どもの頃と同様、「もっと勉強しなさい」と言っているように思える。
〈了〉

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