「作者の死」?(3)(2018)
4 現代の文学と批評
20世紀を迎える頃に出現したモダニズム文学が追及するのは自己表現ではない。表現自体である。それは方法の文学だ。モダニズム文学は近代文学の急進的あるいは批判的な前衛主義である。近代文学の理念を過激に推し進めようとしたり、それが抑圧・隠蔽してきた世界を露わにしたり、前提にしてきた社会が変動し現実にそぐわないと異議申し立てたりする。しかし、それはしばしば写実主義や自然主義と比べて、ヴァージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイス、シュルレアリズムが端的に示しているように、難解である。そのため、それが現代社会においていかなる意味を持つのかを解説する批評が不可欠である。現代の文学理論の走りとも言うべきロシア・フォルマリズムが言語学の影響を受け、モダニズムの1910年代に登場したことは決して偶然ではない。のみならず、作家は精神分析や存在論を始めとする批評の提案に基づく実験的な作品も創作していく。現代文学は創作と鑑賞において批評が共通基盤を提供する。
現代は近代の批判的発展である。それは、ホブズボ―ムの言う通り、第一次世界大戦の終わりから始まる。制限選挙に代わり普通選挙が実施され、平和のための国際協調が模索、グローバルな同期の実現した大衆文化が花開いた時代である。しかし、この時期を「短い20世紀」と呼ぶことには躊躇せざるを得ない。戦間期が復活しているような2010年代を経験する中で、20世紀が終わったと断言することは難しい。
近代の原理・理念に対する現代の註釈は非常に多岐に亘っているが、三つの流れに大別できるだろう。一つは近代の理念をより推し進めようとする本流である。公私の区別を私の側から再検討を促すフェミニズムが代表例だ。次に近代の理念を現実によって批判する傍流である。公私の区別を公の側から再考を迫る宗教や近代体制に挑戦するマルクス主義がこれに含まれる。最後に近代が抑圧・排除してきたものからのコンセンサスに対する異議申し立ての地下水流である。人間中心主義を批判するエコロジーや文化相対主義をはらむポスト植民地主義などが挙げられよう。もちろん、これらの三つの潮流も支流が交流するなど相互に関連している。
近代文学は近代の原理原則と結びついている。同様に、現代文学はこうした現代の思想潮流と呼応している。現代文学の登場人物や語りは抽象的・一般的な近代人ではない。それは具体的・個別的な現代人である。彼らは多種多様な歴史的・社会的背景や個人的事情・特性を持っている。主観性指向の近代文学と違い、複雑化・専門化・細分化した思想状況も反映して現代文学に標準的なモデルを見出すことが困難である。
現代文学は非常に複雑化している。ただ、小説や詩、演劇のいずれにおいても三つの特徴を求めることができる。それは知・情・意、すなわち抽象性・古典性・逸脱性である。
抽象性は構築性・物語性の解体である。抽象性は一般的であるから、通常、個別性を通じて具体化して表現される。その具体性が追及されると、現実感がもたらされる。この過程は構築や物語、流れを誘発する。それは特定の状況への依存が強くなり、一つの現象であっても、物自体ではない。抽象性のままで表現するにはつねに構築や物語を解体する必要がある。それはヌーヴォー・ロマンがよく物語っている。もっとも、この抽象性は主観性の追求の帰結でもある。主観性は移ろいやすく、それによる作品は脱中心的にならざるを得ない。近代文学の自己表現を自己というものの表現としてそれを推し進めた姿である。
抽象主義は前衛的で、大衆の時代への抗いでもある。大衆から支持されないことにアイデンティティを見出すエリート主義だ。主知主義であるから、前知識のない門外漢が初めて接して理解することは困難である。鑑賞者は精神的集中や心理的負担、専門的知識を強いられる。
古典性は歴史の再構成である。形成されてきた正典的歴史を新たな方法論を使って構成し直す。現代文学にとって近代文学も古典であり、それも含まれる。構築性や物語性は流れがあるので、感情に訴え、素人でも理解しやすい。しかし、萩原朔太郎の後期の詩のように」、あくまでそのまま復活させてはいないので、言わば、新古典主義である。
現代の文学事情を考える際に、エンターテインメント性の強いポピュラー文学を無視することはできない。このタイプの文学は19世紀後半から人気を博していたが、その形式は近代小説ではなく、散文で言うと、それ以前のロマンスであり、本流ではない。しかし、方法の文学である現代文学は過去の様式を復活させたり、融合させたりするなどして近代文学を相対化する。娯楽性と芸術性が同居する作品も少なくない。
散文における情の文学は「ロマンス(Romance)」が主で、それは「メロドラマ(Melodrama)」である。国民に代わってエスニックが出現したように、SFやファンタジー、ミステリー、サスペンス、ホラーなどの多様なジャンルが噴出する。ロマンスは「貴族の文学」であり、もう一つの世界を舞台とする。神々の物語である神話とは異なり、近代小説と神話の中間に位置する。歴史小説や時代小説もこのロマンスに属している。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、彼(女)の意識的・潜在的願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、近代小説家がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しい。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしていることも少なくない。すべての要素はそれを実現するために従属している。ロマンスは読む側に負担が少ないため、最も読者を獲得しやすい。この短編形式は「お話(Tale)」である。
逸脱性は近代文学が抑圧・排除してきたものからの異議申し立てである。アングラ演劇が追及しているのはまさにこれだ。近代文学は国民国家を前提にしている。それは植民地や少数派に対する同化や排除をはらんでいる。だから、この異議申し立ては学形式以前に方言を含めた使用言語や叙述形式にも及ぶ。また、移民や難民などによる居住地の移動に伴い、異なる自然・社会・生活環境を体験する。それは国民国家の枠組みを超えており、近代文学の作者と読者の共通基盤から逸脱している。さらに、近代文学の暗黙の前提に挑戦する企てもある。独立した散文・詩・演劇を横断したり、自動筆記によって創作したり、膨大な注釈や引用を用いたりするなどがそうした例だ。
現代文学の特徴の一つに引用の多用がある。過去の作品の知識を利活用した表現技法や展開を提示する。文学ファンにはそうしたマニアックなところが堪らない。しかし、その方法では、次第にマンネリズムに陥り、行き詰ってしまう。技術の面白さにとどまり、模倣ばかりでは新鮮味がない。人は経験を重ねることによってストレスへの対処法を身につける。同様に、経験を消化し、人生やメッセージを示す作品がその打開に求められるようになる。古典性や抽象性の進展による閉塞感を逸脱性が打ち破るのではないかと期待されるわけだ。ところが、題材に依存すると、より特異で刺激的な経験を追求するようになる。それはセンセーショナリズムの危険性を招く。
20世紀の文学は主観性指向に対するこうした継承・批判である。知は歴史的蓄積である伝統の流れをラディカルに推し進める。情は伝統を自らの方法論によって再構成する。意は伝統からの排除・逸脱を包摂する。しかし、この三つの傾向は独立しているわけではなく、しばしば融合している。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』はいずれの特徴も体現している。この二作が文学を変えたと言われる所以はそこにもある。
この現代文学は近代文学の「社会の中の文学」を引き継いでいる。社会は複雑化・グローバル化・多次元化して劇的に変動している。特に、冷戦終結以降、その変化は急速かつ大規模である。文学はそれに呼応し、多種多様な主題や登場人物、内容、形式が出現している。
批評もこうした多様性に目を向ける。その際、主観性から客観性への傾向が強まる。それは内省に代わって、理論を指向するということだ。
現代批評は作者の意図を読み解くことを重視しない。詩人が自身の主観性に基づいて象徴を提示するなら、新批評が主張するように、それを読者も自由に解釈できる。しかし、恣意的に読んでは理解が他者と共有できない。そこで批評家は広く共有された理論に基づいて読解を行う。ただ、物語論やジャンル論のように、その理論は作品群の考察を通じて導き出されていることもある。
批評が依拠する理論は文学にのみ適用されるものではない。それは広範囲の領域に及ぶ。支持者や反対者が議論を重ね、その理論の体系が構築され、現代的諸課題を分析したり、対処したりする際に利活用される。だからこそ、その理論は批評の解釈の妥当性を保障する。
解釈は、本来、抽象的・一般的規範を具体的・個別的事例に適用する作業である。このアプローチの場合、理論が規範に当たり、作品を読み解く際にそれを援用する。そのため、これを解釈的アプローチと呼ぶことができる。エッセイの批評の場合、もっぱら内省に依拠するので、その主張は解釈と言うより、意見の方が適切である。
近代では文学をめぐる研究と批評は比較的識別しやすい。前者はアカデミックで、専門領域を守り、学問的裏付けを重視する。一方、後者はジャーナリスティックで、何でもかんでも扱い、しばしば見解が直観的である。けれども、現代において両社の区別は曖昧だ。アカデミックとジャーナリスティックの違いが残るものの、論証の根拠を理論や経験科学的妥当性に置くので、研究と批評を別物と見なさなければならない理由は必ずしも明瞭ではない。
もっとも、研究と近接すれば、批評離れを招く恐れがある。高度化・専門化・細分化するから、研究者共同体以外の読者には敷居が高くなる。それにより批評の草の根が痩せる危険性がある。創作・鑑賞のいずれでも文学の幅が狭くなり、豊かさと活気が失われる。その意味で、批評家は、研究者と違い、文学の土壌を養う役割を追っている。そのために、文学産業と密接にかかわる批評家には個性的な文体が必要である。研究者にはニーチェについて書けても、ニーチェのように書くことは許されない。しかし、批評家にそれを禁じるものはいない。
理論に立脚した批評は「論文(Paper)」の形式をとる。これは「学者の文学」である。傾向は知的・外向的で、扱い方は客観的である。内容や独自性が重要であるが、理解を広く共有するために、書式は慣例に則っている。アナトミーのような自由奔放さはない。主張は、蓄積された成果と関連させ、形成された体系に位置づけた上で、行われる。引用であることを明示したり、経験科学に立脚した調査を実施したり、参考文献表を付記したりする。この短編形式は「レビュー (Review)」である。
言うまでもなく、時代や社会の変化に伴い、新たな文学の形式が登場しても、従来のものが亡びるわけではない。それは修正が加えられて存続したり、ふさわしい領域や内容において有効性を持ち続けたりする。論文の批評が普及しても、エッセイは健在である。小林秀雄の『様々なる意匠』(1929)のように、理論指向へのアンチテーゼの役割を果たすこともある。そもそも人は誰もが倫理を持ち、生活規範に沿って暮らしている。それを論じる際に、学術的知識が絶対に必要というわけではない。価値判断を語る文芸批評でエッセイは説得力がある。
ただ、このアプローチでは、解釈の妥当性が理論に負っている。当該の理論の適用に賛同できなかったり、それ自体に懐疑的だったりすれば、解釈に同意することができない。特に、テクスト論や脱構築読解、新批評など内生的理論においてその傾向が顕著である。さすがに今ではテクスト論原理主義を支持する者は少ない。伝記的批評への回帰といかにまでも、程度の差こそあれ、テクストの外部を考慮する論考が多い。だが、イスラム主義者を始め原理主義者は聖典をその集団内だけで通用する恣意的な読みを行い、彼らの行動は世界的に現代的課題になっている。これは「作者の死」の行き着くところである。
今日、新たな理論が次々に登場している。それを利活用するなら、いくらでも新しい解釈が可能である。21世紀に入った頃から、ゲーテに由来する「世界文学」の認識が流行している。しかし、これは「グローカリゼーション」の言い換えである。グローバル化の進展はローカル化を伴っているという学際的な共通理解である。80年代から本格化した学際的研究の潮流は今や常識になっている。また、少なからずの学問分野はいささか帝国主義的に自らの可能性を示そうと他の領域に進出している。独自の方法を持っている経済学や社会学、人類学、心理学にその動きが顕著である。政治学や教育学は研究対象と結びついた学問であるから、そうした動きはあまりない。文学は後者に属する。他で編み出された方法論を応用することは、類型的解釈の氾濫の危険性もあるが、現実的に考えると、批評の活性化のためには必要であろう。
解釈的アプローチは学派を超えた標準的解釈の形成に限界がある。そのため、成果をより広く共有するには、歴史的アプローチの方が適している。実際、成果を広く共有するために実証性・客観性を重視するアカデミズムの文学研究はこのアプローチが主である。
もっとも、このアプローチで歴史的評価が定まっていない同時代的作品を扱うことは限定的である。文学史・系譜学の方法を用いて体系に位置づけることはできる。しかし、以下で論じるのは過去を取り扱う場合である。
歴史的アプローチは従来の批評でも行われている。文学的諸伝統を流れとして捉える文学史や内容・形式などの共通性から作家・作品の系図を描く系譜学の研究がそうである。また、マルクス主義のように解釈的アプローチにも歴史を重視する理論がある。けれども、その批評は理論が持つ個性的な歴史観に依拠している。現代批評の歴史的アプローチは現代史学の影響を受けている。現代史学は社会史によってそれ以前の体系が再構成されている。王朝や国家だけでなく、あらゆる対象の歴史性を問う。それを支える史料の範囲も拡張している。文字史料も公文書に限定しない。文学作品もそれに含まれる。加えて、考古学を始め近接学問の手法も利用されている。考古史料や環境・人口変動などの定量的データと文字史料を照らし合わせて複眼的歴史像を構成する。歴史的アプローチにおける主張の妥当性はこうした現代史学研究のそれに依拠する。
歴史上、最も研究されてきた書物として旧約聖書が挙げられる。しかし、現代の専門家は軸の解釈を争うことなどしない。研究はもっぱら歴史的アプローチである。関根清三は、『旧約聖書と哲学』において、旧約聖書への歴史的アプローチを紹介している。それは、分析の次元の違いによって、本文批判・文書批判・伝承史的研究・編集史的研究・様式的研究・伝統史的研究に区分され、歴史的意味規定を目標とする。文学作品をめぐる歴史的アプローチはほぼこれである。
まず、本文批判は各種の古代語訳や写本を照らし合わせ、文法・語彙・表現を分析して原典を確定する作業である。次の文書批判は各本文から形成される全体との関連を吟味しつつ、個々の主題・文体などを検討し、その特質のある単元を規定する作業である。旧約聖書は文書化される以前に口伝伝承の時期を経ていると想定されている。この諸段階と歴史的要因の関連、伝承の姿を明らかにするのが伝承史的研究である。こうした口承が文書化され、加筆・補足・註釈などの編集過程を通じて現在の定本に至った行程を探求するのが編集史的研究である。その際、作者や口承者、編集者は彼らが属している集団の文学的規範に則り、類型的に語り、記されていたとして、それを浮き彫りにするのが様式史的研究である。最後の伝統史的研究は、彼らが前提としていた精神史的・文化史的・思想史的な背景を伝統と認め、それらの中で何に基づいて本文を形成していったのかを用語のレベルまで及んで考察する作業である。
ここ最近の日本における最も画期的な歴史的アプローチの成果は、2012年の野中哲照國學院大學教授による薩摩硫黄島の熊野三山と『平家物語』をめぐる研究だろう。俊寛・藤原成経・平康頼が薩摩硫黄島へ配流され、帰洛を祈願するために熊野三山を島の中に勧請したと『平家物語』にある。従来この逸話は架空とされてきたが、教授は現地調査や各種の史料を根拠にしてこれが事実だと明らかにする。その上で、教授は歴史的実在が物語化されていく過程を解明し、全国の熊野信仰と島のそれが文化的につながっていることを顕在化している。個別の文学テクストの読解から一般的な物語や信仰との関連へと議論を発展する。文学における歴史的アプローチのお手本とも言うべき実例である。
加えて、社会史革命は文芸批評が扱える範囲を格段に拡張している。文学をめぐる行為や翻訳、空間、制度、知覚、媒体、出版産業、ブック・デザイン、識字水準、土壌など多岐に亘る。また、文学史の記述も社会史によって再構成される。著名な作家や作品にとどまらず、文学が無名の人々のものでもあることも示される。社会の中の文学と考えるなら、その草の根も知る必要がある。
しかし、社会史の影響が大きくなるほど、それは文学者と歴史家の区別を曖昧にする。現代の歴史家が文学作品を扱う場合、読みこみもさることながら、それを客観的・実証的に補強する研究成果・史料を参照する。そのため、文学者は自分たちならではの歴史的アプローチの批評を問い直す必要に迫られる。
その最高の実例がミハイル・バフチンのフランソワ・ラブレー読解を通じた中世民衆文化論である。史料が一切ない時代や地域を研究する際に必要となるのが理論である。史料がある対象の研究成果から導き出される理論をそこに援用する。それには、その理論の完成度が高く、説得力を持っていることが前提である。そうした適用に整合性が認められるなら、史料に基づかなくても、研究者間で妥当と判断され得る。この演繹的方法の最も成功した例がバフチンの中世民衆文化論だ。中世の民衆文化に関する史料は、今のところ、十分に見つかっていない。バフチンは、ルネサンス初期のフランソワ・ラブレーを手掛かりに、中世の民衆文化を「カーニバル」と描き出す。この説には実証性はまったくないけれども、歴史家の間で評価が高い。文芸批評は主に解釈的アプローチのことと思われがちだが、そうではない。この研究は文学ならではのものである。
現代文学は非常に多様で、中には極めて難解な作品も少なくない。それが社会的・文学的にいかなる意味を持っているのかを現代批評は理論を用いて語る。また、過去を扱う際には、社会史革命を踏まえて、現代批評は自説を示す。さらに、現代文学はそうした批評の主張を手掛かりに新たな作品を物語る。
しかし、現代批評は解釈的・歴史的アプローチを進める中で、アイデンティティの確認を強いられる。多様であることは統一感がなく、成果の蓄積も乏しいことでもある。主観性から離れ、作者の死を前提に発展してきた現代批評はしばしば自身が何者であるかについて苛まれる。
それは「文学はどこに行くのか」と言う問いかけでもある。近代文学は近代の原理・理念と結びついているため、アイデンティティが確かである。一方、現代は近代を批判的に継承し、普遍性を目指しつつ、多様性を尊重、包摂・共生する。新たな原理・理念を見つけたわけではない。そんな時代の現代文学も、批評と同様、アイデンティティが揺らいでいる。