植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(6)(2004)
6 植民地支配の始まり
1894年に始まった日清戦争に勝利した日本は、翌年、下関で開かれた講和会議で調印された下関条約により、遼東半島や台湾などを清から割譲され、初めて植民地を手に入れる。1895年5月に台湾総督府が開設され、海軍大将の樺山資紀《すけのり》が初代総督に就任する。統治機関として台北に総督府を置き、総督・民政長官(後に総務長官)の下、内務・財務・警務などの内局、法院・専売局・交通局といった関係機関、さらに地方行政機関を整備する。総督には1896年制定の台湾総督府条例により陸海軍の大将・中将が就任し、軍事・行政の全権を掌握している。総督には法律と同じ効力を持つ律令を発布する権限も与えられ、警察権・出兵請求権など絶大な力を保有する総督府は、この強権によって以後五十年に渡って台湾を支配していく。
1895年5月25日、清朝の台湾巡撫《じゅんぶ》であった唐景崧や劉栄福らは台湾民主国の独立を宣言し、日本の統治に抵抗したが、日本軍によって10月までに制圧されている。民衆による武装蜂起もおきたが、1902年に林少猫らの漢族抗日ゲリラが鎮圧された後、高山族の抵抗は5代総督の佐久間左馬太《さまた》指揮下で徹底的な弾圧を受けている。
1919年(大正8年)、総督府から台湾軍司令部が独立し、総督の軍事指揮権はなくなり、以後は文官が総督となっている。これには朝鮮半島の事情も影響している。警察・軍隊を使った威圧的な武断政治に対する朝鮮人の民族的抵抗は、同年3月1日に始まる反日独立運動、三・一独立運動に発展する。日本政府は政策を転換して、「文化政治」を採用している。軍事と警察の分離、朝鮮語新聞の発行許可、政治への部分的参加を認めているけれども、警察力が増強され、朝鮮人への同化政策の徹底化といった強権的な支配構造は維持される。
1922年、台湾教育令と朝鮮教育令が施行され、台湾と朝鮮半島は内地と同様の教育システムに置かれるようになる。植民地では例外的な処遇が認められていたが、この時から、台湾と朝鮮半島に限って、この処遇が撤廃される。特別統治主義から内地延長主義への転換である。同化政策は日中戦争の開始後さらに強化され、朝鮮総督府は皇民化政策として朝鮮人の民族性を抹殺しようとしていく。その上、1936年(昭和11年)には、日本の南進政策を進めるため、台湾総督府に武官総督が復活してしまう。
ただし、台湾の場合、この教育は漢民族に対してのみ行われているのであって、「生番」や「高砂族(現高山族)」と呼ばれた少数先住民族に対しては教育所を設置しただけである。日本政府・軍部は、支配地域において、白人を頂点にして中国人・朝鮮人、その下に少数民族という序列で政策を施行している。戦前の台湾は、アウストロネシア語族系の先住民族、さらに、16から17世紀ごろ、台湾海峡の対岸の福建省や広東省から移り住んだ漢族から住民が構成されている。彼らは、戦後、国民党と共に台湾に移り住んだ「外省人」と区別され、「本省人」と呼ばれている。先住民族は、漢族に融合・同化して、固有の言語や習俗がほとんど消失したケタガランやクバランなど10を超える「平埔(へいほ)族」、ならびに「高山族」とも称され独自の言語と文化を保ち続けているタイヤルやアミなど九つの「原住民族」とに分類される。
教育所は上級学校と接続されない簡易の教育機関であり、樺太庁でも、アイヌやギリヤーク、オロッコといった少数先住民族に対して同様の教育機関が設置されている。1899年(明治32年)の北海道旧土人保護法および1901年の旧土人児童教育規程に基づき、北海道在住のアイヌに対してすでにこうした教育制度を適用している。
満州でも、「五族協和」イデオロギーに基づき、1943年(昭和18年)の学制改正によって「五族」に含まれる朝鮮民族の言語を次第に教育の場から追放する一方で、1941年に締結された日ソ中立条約に配慮して、ロシア語の教育を保証している。
また、南洋庁の南洋群島では、公学校の次に簡単な補習科が設置されている。1922年(大正11年)の台湾教育令と朝鮮教育令による教育も、中国人と朝鮮人を対象に行われていたのであり、植民地支配の正統性の基盤にかかわらないそれ以外の人々に対する支配はあそこまでの同化政策にまで至っていない。
1910年代までは、台湾における現地人の就学率は低く、また総督府の方も現地人に対する教育に熱心ではない。欧米と比較して見劣りしないだけの学校を建設すればよいと考えている。けれども、大陸で辛亥革命が起き、近代的な教育への関心が現地人の間にも強まると、総督府は教育を普及させ、その内容を制限することで、独立運動を抑える政策に転換する。
台湾と朝鮮半島を内地と同じ教育政策にした場合、試験で現地人が日本人を上回り、社会的地位の独占への不満が募ってくれば、支配を正当化できなくなる。そこで、「国語」が効力を発揮する。日本語で選抜試験を行えば、日本人が有利であるし、皇国史観や国体を試験問題にすれば、それを覚えなければならない。この価値観の下で、政府・軍部は、二つの植民地に対して教育を平等にしている。内地の教育教材も、それに伴い、反動化せざるを得ない。植民地支配の矛盾が内地の教育に影響を与えたのであって、内地の教育を植民地に拡大したのではない。
植民地ではないが、沖縄においても権威主義的な日本語教育が行われている。戦前は、全般的に、レコードやラジオなど音声メディアが未発達であるため、多くの国民は方言を中心に聞いて育っている。話し言葉によるコミュニケーションが国民間でスムーズに行くとは限らない。実際、軍隊は出身地別に兵士を配属している。東北人と九州人が同じ部隊にいることはない。ところが、沖縄では学校内において土地の言葉で話すことが禁止されている。話しているのを見つけると、教師が児童に罰を科している。
また、江戸幕府が明治維新直前に日本領に加えた小笠原には、当初、日本語話者が住んでいない。住民は船乗りや漂流民の欧米系、ならびに船で渡ってきたポリネシア系の人々である。先住島民に日本国籍が与えられ、人名や地名などの固有名詞は欧米系やポリネシア系がそのまま使用される。「イーデス・ワシントン」や「ㇿンポン(ロング・ポイント)」などカタカナで表記されている。ただし、戦時統制が強まる時期に日本式に改称されている。明治に入り、本土からの移住が始まり、学校教育も導入されるが、欧米系住民であったため、言語統制は沖縄に比べて緩やかである。
政府・軍部は自分たちの拡大政策が欧米列強による帝国主義的搾取とは違うと主張するために、「植民地」という単語を法律用語に指定しない。一般的な場合、「朝鮮、台湾、関東州及南陽群島」と地名を列挙し、その他には、「外地」、「新領土」あるいは「特別地域」という呼称を用いている。この矛盾が植民地政策に反映される。
植民地は、国際法上による規定に基づき、本国と異なった法が適用される。台湾と南樺太は戦争の結果、講和条約を通じて、領有している。また、朝鮮半島は大韓帝国を保護国化した後、韓国併合条約を強制調印させて、日本に組み込んでいる。さらに、中国東北地域は関東州租借地、ならびに南満州鉄道株式会社が行政代行する鉄道沿線の附属地、そして旧ドイツ領ミクロネシアの南洋群島は国際連盟による委任統治領である。
中国東北地域は、事実上はともかく、植民地と必ずしも言えないが、他は、明らかに、植民地に相当する。台湾総督府と朝鮮総督府は天皇直属の機関であったため、内閣から独立した権限を保有している。それに比べると、樺太庁・関東庁・南洋庁の長官は知事よりやや上に位置する程度であり内閣へ従属している。
台湾・朝鮮半島への植民地政策は、表面的には、列強によるヨーロッパ内部の支配に似ているが、前者にある父殺しが後者にはない。オットー・フォン・ビスマルクが首相に就任して以降、ドイツはポーランドに対して極端な言語統制に基づくドイツ化政策を行っている。公用語・裁判語・教育語・軍隊命令語はドイツ語に定め、ポーランド語を私的な領域以外許可しないという政策である。そのため、ポーランドでは激烈な反ドイツ闘争に至っている。ドイツによるポーランド支配には汎ゲルマン主義、あるいはロシア・フランス・オーストリアへの対抗意識が見られるが、日本の台湾・朝鮮半島支配には自分たちの過去の抹殺がある。
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