パキスタンの失敗(2012)
2012パキスタンの失敗
Saven Satow
Nov. 01, 2012
“We wish our people to develop to the fullest our spiritual, cultural, economic, social, and political life, in a way that we think best and in consonance with our own ideals and according to the genius of our people”.
Muhammad Ali Jinnah
第1章 軍部の影響力
2012年10月9日、パキスタンに住むマララ・ユスフザイが通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていると、複数の男によって銃撃される。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷する。「パキスタン・タリバン運動(TTP)」が犯行を認め、その理由を彼女が女性への教育を提唱していたことが親欧米的であるとしている。その後、彼女は英国に搬送されて治療を受け、幸いにも、回復しつつある。
『コーラン』に最も頻出する単語は「イルム」である。これは幅広い意味を持つが、「知」を指すと考えればよい。イスラム法学者の「ウラマー」もこの派生語である。知識を求めることはイスラム教徒にとって重要な行いである。それを実践している少女を銃撃するなどイスラム的とは到底言えない。
世界の世論がTPPへの非難を高める反面、地元パキスタンではその声が低い。記憶を思い出し、報復を恐れているせいもあるだろう。しかし、時代は変わりつつある。リビアで米外交官暗殺事件を起こした民兵グループが怒った地元住民に襲撃されて、逃げ出している。武装勢力と言っても、所詮少数でしかない。多勢に無勢だ。TTPがいくら暴力的でも、怒り狂った多数の住民に襲われては一たまりもない。だが、パキスタンでは民衆の怒りが暴力組織に向けられる動きは今のところ見られない。自分たちが新たな社会をつくるのだという意欲がわかない限り、それはなかなか起きない。
途上国が経済成長するには外資導入が欠かせない。それには安い人件費だけでなく、治安の良さや労働者の教育水準の高さも必要である。この事件はパキスタンが有望な投資先ではないことを世界に印象づけている。
TTPは、02年にパキスタン軍がタリバン掃討作戦のために国内のワジリスタンに進行したことに反発して結成された反政府勢力である。その後、アフガンのタリバンとも連携している。08年、パキスタン政府はTTPの存在を確認、禁止措置を取っている。
パキスタンの歴史をたどると、この国は失敗したのではないかという思いがわいてくる。隣国のインドは急速な成長を遂げるのみならず、今や世界経済の牽引車として期待されている。また、パキスタンから分離独立したバングラデシュは、一次産業が中心であるけれども、グラミン銀行のような途上国における新たな金融イノベーションを世界に提示している。2010年、バングラデシュは領内のインドによるトランジットを認めることを決定し、両国のコネクティビティが促進されている。
パキスタンは財政状況・国際収支共によくなく、しかも改善の動きが見られない。テロの頻発を始め治安も悪い。2005年から毎年米国のシンクタンク「平和基金会(The Fund for Peace)」が「失敗国家(Failed States)」ランキングを発表している。パキスタンは06年よりワースト20の常連で、12年のランキングでは13位である。アジアで20位以内に入っている国は、他に6位のアフガニスタンと9位のイラクだけである。
米国のシンクタンクの発表が真に妥当であるかどうかには議論の余地がある。しかし、パキスタンは、08年に民政移管したけれども、不安定な政治情勢が続いている。率直に言えば、インドが種々の問題を抱えているものの、独立以来、議会制民主主義と文民統制をほぼ一貫して維持しているのに対し、パキスタンは軍政が繰り返されている。それどころか、民政の時でさえ軍部の影響力が著しく高い。
パキスタンは、人口やGDPがインドの一割強程度である。にもかかわらず、戦力はインドの2分の1の規模を保持している。これだけ軍事予算を使っていては、経済成長もおぼつかない。予算のみならず、戦前の日本を思い起こせばわかるように、安全保障を盾に政治・経済・社会活動が制限される。
しかし、世論の民政への信頼感は低い。実際、腐敗や汚職など質の低い政治が展開されている。そのため、軍政への抵抗感が高くない。もっとも、軍政への忌避が低いのは必ずしもパキスタンに限った現象ではない。途上国で軍は近代化ならびに制度化も早く、例外的に規律がある組織である。また、国民意識を体得させる機関としても機能する。
軍部の優遇には安全保障上の理由がある。カラチやラホール、イスラマバードなど主要都市はインド国境から自動車でわずか数時間ほどの距離しかない。インドに攻めこまれたら、政治・経済の中心地があっという間に制圧されてしまう。東からの脅威に対処するため、安全保障の優先順位が最高位にあるのは当然である。
ただ、安全保障上の理由から予算や地位、ポストなど軍部への優遇が始まったとしても、それは既得権益と化す。実は、パキスタンの富裕層の多くが軍関係者である。既得権益保持のため、軍部は政治介入を繰り返す。干渉する割に、この軍部は、北朝鮮との体制競争下にあった韓国の朴正煕政権の開発独裁のような経済的成果も上げていない。
第2章 インドへの対抗
独立以来、印パは何度となく戦争・衝突を繰り返している。それはお互いの国家理念が相容れないせいでもある。
1947年、英領インドはインドとパキスタンに分離独立する。前者は民族や宗教にとらわれないインド人という国民統合を理念としている。一方、後者はヒンドゥー教徒が多数派であることは紛れもない事実で、少数派のイスラム教徒の権利を守るために、イスラム教徒の国として独立することを選択している。その際、インド地域からイスラム教徒、パキスタン地域からヒンドゥー教徒がそれぞれ移動する過程で、多数の惨劇が起きている。
インドを東西に挟みこむようにイスラム教徒人口が多い地域をパキスタンとして独立する。しかし、ベンガル地域の東パキスタンはともかく、西パキスタンに関しては建国に際してかなり無理があったと言わざるを得ない。
現在のパキスタン、建国当時の西パキスタンは確かに住民の多数がイスラム教徒である。けれども、英領インド時代、ここは僻地で、高等教育機関が一切設立されていない。独立しても、近代国家を運営できる人材が地元にはほとんどいない。また、経済基盤も見当たらない。工業化の経験も皆無である。実際、建国直後に統治を担ったのは「ムハージル」と称されるインドから移住してきたエリートたちである。地元の言語を解さない彼らは、公用語を自分たちが慣れ親しんできたウルドゥー語にしてしまう。外から押しかけてきた連中が国家を支配し、使う言語まで決めてしまったというわけだ。
しかも、1948年9月に建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが急死する。インドでも、同年1月にマハトマ・ガンディーが暗殺されているが、カリスマ性を持った指導者としてジャワハルラール・ネルーがいる。けれども、パキスタンはジンナーの一枚看板で、残りはドングリの背比べといったところだ。住民に彼らの言語で直接訴えかけることもできないムハージルが集団で指導体制を維持するほかない。
この状況でインドに備えて軍備増強を図るなどは無謀であるが、パキスタンはそれを選択する。経済成長に見合う軍事費ではなく、他の予算を圧迫してまでも軍備を整備する。
それでも、60年代まではパキスタンのインドへの対抗措置が国際的に飛び火することはほとんどない。しかし、70年代に入り、パキスタンは危ない橋を渡り始める。
1971年にバングラデシュがインドの協力によって分離独立して以来、パキスタンの安全保障戦略が大幅な変更を余儀なくされる。インドを東西から挟み撃ちにする戦略がもう使えない。しかも、パキスタンの中心都市はインド国境に近い。そこで軍部が目をつけたのが内戦状態のアフガニスタンである。ここに友好政権を樹立できれば、インドを牽制できる。アフガンの諸勢力と接近、次第にタリバンに絞りこんで支援を強化する。タリバン=パキスタン連合軍はほどなくアフガンの大部分を支配下に置く。
9・11が発生すると、アメリカからパキスタンはタリバンとの決別を迫られる。東西冷戦の頃から、パキスタンはアメリカと友好関係を結び、政治・経済・軍事の維持にその支援が欠かせない。パキスタンはテロとの戦いへの協力を約束するが、国内の反米勢力が反政府運動を激化、軍による掃討作戦と報復テロの応酬が続く。この過程でTTPも成長する。対印の前に軍部は国内の反政府勢力との戦いに戦力を注がねばならなくなる。
現在、印パはお互いを仮想敵国として核兵器で対峙している。しかし、発端はインドとの通常戦力で劣るパキスタンが劣勢を挽回するために核保有に踏み切ったからではない。インドは62年に中国との国境紛争に敗れ、64年に中ソ対立から同国が核実験に成功すると、対抗措置を考える。74年、インドが最初の核実験を成功させたのを知るや、パキスタンはこれを脅威と受けとめる。通常戦力で上回るインドがパキスタンに対して核武装をする意義は少ないのだが、仮想敵の主張を同国はまったく信じない。けれども、NPT体制がすでに始まっている。そこで、アブドゥルカデル・カーンが中心となり、核開発に関するさまざまな知識・技術を盗み出したり、裏取引をしたりして入手する。核の闇取引市場が生まれ、北朝鮮やリビア、イランなども関わっていたと見られている。
さらに、パキスタンは武装勢力を密かに支援してインドに揺さぶりをかける。しかし、これが自国にとって有利だと軍部が考えているとしたら、時代遅れも甚だしい。現代の国際社会は相互依存が進んでいる。石原慎太郎の愚かな挑発行為が示したように、ある国が不安定化すれば、それが属する地域、場合によっては世界中に悪影響が及ぶ。パキスタンはインドと共倒れしてしまうのがオチだ。それは世界にとっても迷惑である。1999年のカールギル紛争から、国際社会は、印パ対立が激化すると、戦争を許さない姿勢で両国に臨んでいる。
歴史を振り返ると、パキスタンはインドへの対抗に翻訳して国家運営を行っていることがわかる。軍部の既得権益もそれによって正当化されている。確かに、インドは南アジアで突出した大国であり、パキスタンほど極端ではないにしろ、周辺国はいずれも対応に苦慮している。インドにあまりに柔軟な姿勢を示すと弱腰と国内から突き上げられる。インドは周辺国との貿易総額が対日のそれを下回る。対印関係は周辺国にとって最大の外交課題である。加えて、植民地支配された経験を持つ国にとって安全保障は独立の確保からも最重要関心事の一つである。英領インドはまさに帝国主義的植民地の象徴だ。
インドへの対抗意識だけがパキスタンの失敗の原因ではない。実際、隣の大国への対抗意識を持つからと言って、失敗するとは限らない。台湾が好例である。国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れる。蒋介石は地元の言語を解せず、住民に直接訴えかけることができない。大陸反攻を掲げる国民党は一党独裁を敷き、反対勢力を厳しく弾圧する。しかし、中ソ対立の激化に伴い、中国が核保有すると、そのスローガンの現実味は失せる。アメリカとの関係から核を持つには至らない。けれども、米国と日本が相次いで中国と接近、台湾の国際的地位は低落する。現状維持が世論の主流となり、国内外からの民主化要求が国民党へ強まる。90年代、複数政党制の総統選挙・議会制民主主義へと移行する。
冷戦期の認識では、経済成長には必ずしも民主主義が必要ではない。台湾もそうである。蒋介石は50年代から経済政策を主に米国留学経験のあるテクノクラートに執行させる。彼らは農地改革を断行、自作農のインセンティブを高めて農業生産量を増大させる。また、工業部門は輸入代替から輸出志向へと政策を転換させる。外資を積極的に導入し、輸出企業を優遇する。労働運動が弾圧されるため、労賃の上昇が抑制され、国際競争力が維持される。76年に一人あたりのGNPが1000ドル、80年になると、2000ドルを超える。その経済発展の主役は中小企業である。80年代にはアジアNIESの一翼を担い、90年代後半から賃金上昇とアジア通貨危機に伴い低迷するが、2000年代半ばには回復基調を示している。
成長を順調に遂げた途上国では、しばしば、留学経験のあるテクノクラートが自律性高く、経済政策を担っている。しかし、パキスタンにそれが見られない。歴史を遡っても、経済政策に関して評価すべきところがあまりない。「人間開発指数(HDI)」を考案した経済学者マブーブル・ハックが財務大臣を務めたこともある国なのに、信じられない。経済成長率は、90年代までは、農業部門を軸にして比較的高い伸びを示しているが、これは「緑の革命」の恩恵である。発展分は国際分業体制に加わるなどの産業化に有効に使われることなく、軍事費に消える。農産品を原材料とする製造業が勃興し始めるものの、主力は一次産業である。けれども、一次産品は国際的な市場動向に大きく左右される。経済運営が厳しくなると、外国や国際機関に支援を仰ぎ、その代わりに、緊縮や自由化を求められ、実施により格差が拡大、政権と外国への不満が高まる。よくある途上国の話だ。
インドへの対抗措置から軍部を優遇するだけで、テクノクラートによる自律的な経済政策も隣の大国との体制競争だという認識が弱い。国家規模が小さいことは、経済面で見ると、必ずしもデメリットではない。経済政策の小回りが利きやすいなどのメリットもある。インドは民主的であったせいもあって、長年、経済政策で右往左往している。この間、パキスタンが国際分業体制に加わり、インドを尻目に成長することは十分に可能だったが、その機会を逃している。
グローバリゼーションは途上国のためにある。世界的サプライ・チェーンに参加できれば、いかなる国であっても成功への道が開ける。失敗国家も例外ではない。
〈了〉
参照文献
堀本武功他、『現代南アジアの政治』、放送大学教育振興会、2012年
The Fund for Peace
http://www.fundforpeace.org/
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