邪魔くさいけどええやないか─森毅(6)(2021)
第6章 社交と社会関係資本
森毅において最も重要な概念の一つが「社交」である。これは初期から晩年に到るまでの大半の著作に登場する。たんに触れるだけでなく、「社交」をテーマにした『ええかげん社交術』(2000)も著わしている。この著作に限らず、森毅は「社交」を日常的な人間関係から政治・経済・社会・歴史の問題にも拡張する。人間関係のあり方がミクロからマクロに及ぶさまざまなレベルで影響をもたらしていると彼は説く。
社交は基礎的な人間関係であるが、近代日本の思想家の中でこれを中心に論じたものはほとんどいない。しかし、社交は西洋では古来より政治にも関連している。西洋政治理論における最も伝統的な問題の一つが僭主、すなわち独裁者の防止である。スコラ哲学者の思想家トマス・アクィナスは『君主の統治について(De Regno Ad Regem Cypri)』において、「社交」を分断する僭主政を最悪の政体と批判している。
僭主は、古代地中海世界で、外敵に対する功績を足場に、貴族の軋轢や平民の不満を利用して権力を掌握し、独裁的な手法を展開する政治指導者である。古典ギリシャ語の「僭主(Tyranos)」は英語の「暴君(Tyrant)」の語源でもある。アテナイのペイシストラトスが僭主の代表とされる。
アクィナスはアリストテレスに則り、人間が集団として追及するべきは「共通善」だと主張する。これをないがしろにすると、その集団は崩れてしまう。正しい支配は自由人の集団において果たされる。それは集団として共通善に向うための支配であり、奴隷の集団とは異なる。
僭主はその共通善の継承よりも私的利得を追求する。「正義」ではなく、「気まぐれ」に従って統治するため、無法が到来、人々は安堵感を失ってしまう。僭主は「社交」や「協調」を禁止、人々の相互信頼を奪う。人間関係はその信頼に代わり依存や服従へと堕落する。人々は恐怖政治の下に置かれ、「卑屈」になり、「有徳」に生きられなくなってしまう。
このように「社交」は古くから重視されている。近年、その社交は別の概念に読み替えられて注目されている。それが「社会関係資本(Social Capital)」である。森毅の「社交」もこれに相当する。
「ソーシャル・キャピタル」自体は、ジョン・デューイが『学校と社会』(1899)の中で使っているように、必ずしも新しいわけではない。だが、新たな社会認識のキーワードとして見られるようになったのは比較的最近のことである。アメリカの政治学者ロバート・パットナム(Robert David Putnam)が『哲学する民主主義――伝統と改革の市民的構造(Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy)』(1993)において展開したことにより注目され、2000年代には他分野でも研究が進んでいる。アクィナスの「社交」はこの概念によって理解できよう。
森毅が「ソーシャル・キャピタル」や「社会関係資本」を使用したことはない。しかし、彼の「社交」が社会関係資本と重なることは、後に論じる通り、確かである。それは森毅の先見性の現われだ。
「社会関係資本」は近代的な個人主義に対する異議申し立てとして共同体の意義の再検討という文脈から普及している。近代本流の思想はリベラリズムである。自由主義は個人主義に則り、共同体は個人を束縛するもので、そこから地涌になることがよりよい社会の実現につながる。しかし、共同体主義者はそれに反論する。そうした流れは故人をアトム化しただけで、社会には共同体にある信頼とお互い様の人間関係による結びつきが不可欠である。ソーシャル・キャピタルはこういったコミュニタリアンの思想が背景にある。
社会関係資本は人間における協力形態の一つとして捉えられる。この協力は交換・自給・支配・互酬の四つに大別できる。交換は取引であり、その典型が売買だ。それが繰り広げられる最大の場が市場である。自給は自給自足のことで、それは家政である。支配は権力による権利と義務の人間関係だ。国歌がそれを代表する。互酬は協同である。資源をプールし、協同で利活用する。この第4の協力関係に基づくのがソーシャル・キャピタルである。
社会関係資本はつながりの点から二つに大別できる。一つは絆を強化する「結合型(Bonding)」である。社会集団内部の連帯を強める。もう一つは広げる「橋渡し型(Bridging)」である。異なる社会集団を連結させる。前者の場をコミュニティと呼ぶとすれば、後者はネットワークになる。コミュニタリアンにとってのソーシャル・キャピタルは主に結合型である。しかし、橋渡し型もあり、こちらは必ずしも共同体主義的ではない。それは見ず知らずの人が参加する献血を思い浮かべればわかるだろう。
森毅は『ええかげん社交術』において人間関係を「集中」と「核酸」に分けて捉えている。これはソーシャル・キャピタルの結合型と橋渡し型に対応する。その上で、彼は前者を「会社主義」=「男味」、後者を「社交主義」=「女味」と呼んでいる。
もちろん、森毅は「男味」と「女味」を男女の本質的違いとして語っているわけではない。男性中主義的社会に起因する男女に比ゆ的に見られる傾向である。
森毅は、『男文化の行方』において、「男味」と「女味」について次のように述べている。
男味のほうが集中的とするなら、女味のほうが分散的だろう。なんでも一つにかたまって集中するのがよいように考えられてきたが、そうでもない。
たとえばテストのときは集中力と言い、たしかに一つの方向に世界を定めて集中するのが有効だが、そうばかりでもない。テストのあとでぼんやりと心を開いていると、なんでもない解き口が見つかったりすることがある。
よいアイデアは、世界を閉じるより、できるだけ心を開いて外からの兆候を感じたほうがよい。そして、そのアイデアをかためるときは集中力が必要。(略)
あるいは、男味は計画達成型で、女味は状況反応型であろう。男味がすぎると計画にこだわるし、女味がすぎると状況に流される。男文化のモラルでは、「男はいったん決めたら、まわりを気にせずとことんやる」ことで、女文化のモラルでは、「まわりの様子への気くばりがなにより」となる。それで、男の子と女の子がいると、男の子がなにか欲しいときは自分の熱意と理屈で迫り、女の子だと親の機嫌の流れを読みとる。
男味のほうが安定性を必要とするものづくり産業に向いていて、女味のほうがアパレルのような情報付加産業に向いていよう。時代としては情報の部分が増えて、女味に向かっている。
森毅は集中と分散の人間関係に優劣がるとは言っていない。従来あまりに後者に対して前者が評価されすぎていたことを指摘しているのであって、むしろ、両者の融合を望ましいと考えている。イノベーションには見方を広げ、さまざまな結びつきを可能にする分散型が適している。橋渡し型社会関係資本や社交も同様だ。ただ、そのアイデアを実際の形にしていくには集中型が必要だ。「頑張れば壁が突破できるというのは〈集中〉の効果だけれども、〈分散〉のほうは、世界を広げることによって、いろんな可能性を見つけやすくする」(森毅『男味と女味─集中と分散について』)。
ところで、社交は社会性を意味する。他社と交際するには、社会的に認知された作法を知っておく必要がある。そもそも見知らぬ他者と会話をするには、声をかけなければならない。そういう社会的な知識や実践ができなければ、交際も始まらない。度胸と愛嬌といった個性が生きてくるのはその後である。
森毅は、社会関係資本のうち、橋渡し型の必要性を説いている。このタイプは、近代に入って以来、実は、特に人々に求められるようになったものである。森毅の強調は近代における社会関係資本の傾向をよく物語っている。
「社交」は前近代と近代では内容が異なっている。前者が顔見知りの間での結合型であるとすれば、後者は見知らぬ者との橋渡し型である。それは1788年にドイツのアドルフ・F・V・クニッゲ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge)が『人間交際術(Über den Umgang mit Menschen)』を刊行し、大ベストセラーになったことがよく物語っている。
前近代において、人々に移動や結社、職業選択の自由はない。身分や職能を継承し、人間関係は地縁・血縁にほぼ限定され、人生のほとんどの時間を故郷で過ごす。移動が仕事に含まれる商人など例外はいるが、大部分は顔見知りの共同体がその人の世界である。ところが、近代に入ると、この状況が変容する。職業選択や移動の自由が認められ、見知らぬ人と出会う機会が増す。社会がコミュニティの集合からネットワーク化する。漠とした社会で、新たな事態にどう対処したらいいかを人々は求めるようになる。
そんな時代背景の下で出版されたのが『人間交際術』である。見知らぬ人への声のかけ方や初対面の時の作法、自分を相手に売りこむ方法、ナンパ術などが記されている。近代化により見知らぬ人との出会いが増えたため、社交のノウハウ本がベストセラーになったというわけだ。
メディア・プロデューサーの残間里江子が未婚の母になるさい、彼女の母親は、彼女に対して、子供と子育てについて彼らの大切なポリシーを伝えた。街ではいろんな人と会う可能性があるが、それはたいへんな危険を伴う。でもその危険を覚悟した上で、できるだけいろんな人とつきあえるような子供になるように育ててあげないさい、と伝えられたというのである。
当節、どちらかと言えば社会全体が、知らない人とはつきあわないようにしようという安全運転の方向だ。通り魔や誘拐事件が横行している世の中だから、仕方のない流れだとは諦めているけれども、ちょっぴり寂しい世の中になったものだ。
(森毅『ええかげんネットワーク─偶然の出会い』)
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