ギュゲスの指輪と公文書管理(2018)
ギュゲスの指輪と公文書管理
Saven Satow
Feb. 06, 2018
「私の罪は従順だったことだ」。
アドルフ・アイヒマン
2017年に顕在化した森友・加計・PKO日報問題は政府の公文書に関する恣意的な管理も明らかにしています。公文書管理法が「国民の共有財産」とする公文書を政府が自らの都合に応じて隠蔽したり、抹消したりしています。毎日新聞は2018年1月15日から「公文書クライシス」として公文書管理の実態と課題を継続的に報道しています。記事は、政府が公文書を恣意的に取り扱い、国民の知る権利に応える意識に乏しいことを伝えています。
こうした情報の非対称性が公益よりも私益を追求する誘惑になることは、実は、政治理論における最も古い問題の一つです。現存する最古の体系的な政治理論の作品はプラトンの『国家』です。その第2巻の冒頭に、「ギュゲスの指輪」という譬え話が登場します。ソクラテスがいつも通り若者たちに、「正義」は魂の「美徳」であり、「不正」が魂の「悪徳」であると説いていると、グラウコンというシニカルな青年が彼に次のような比喩を用いて、批判します。
昔、リュディア王に仕えていた羊飼いのギュゲスという男がいます。ある日、突然、大雨が降り、地震が起こって、大地に地割れが走ります。この天変地異の後、ギュゲスはポッカリと開いた穴の中で、指輪を見つけます。それは自由に自分の姿を消せる魔法の指輪です。指輪を手にした彼は妃と通じて、王を殺し、国を乗っ取ってしまうのです。
誰からも咎められないような権力を手に入れてしまったなら、「不正」な行為の誘惑に誰も勝てないのではないかとグラウコンはソクラテスに疑問を投げかけます。現代風に言えば、情報公開もなく、責任も追及されなければ、権力者は公益よりも私益を追求するのではないかということです。
この指摘は極めて鋭く、それに答えるため、ソクラテスは、哲人王や詩人追放、洞窟の比喩、国家による教育システム、魂の想起など数々のアイデアを織り交ぜつつ、体系的な国家論を語っていきます。非常に示唆に富む書物です。政治はつねにギュゲスの指輪の誘惑を払いのけるべきであり、そもそもそれを権力に渡さないことが一番でしょう。
ソクラテスがグラウコンの異議を受けて対話を始めるにあたり、それはよい生き方なのかと問いかけます。暴飲暴食をすれば、健康を損ないます。指輪を使って好き放題することも同様ではないかとソクラテスは質すのです。
これには少し補足が要ります。古代はよく生きること、すなわち徳の実践が政治の目的です。宗教戦争を教訓に、政教分離が近代の政治では最も基本的な原理です。それに対し、古代は政治と道徳が一体化しています。道徳的生き方が政治的それでもあるわけです。
政教分離の原則から、今日、政治を道徳的価値観から評価すべきではありません。しかし、政府で働く者たちには公共の福祉に基づく倫理性が要求されます。その判断・行動が社会に大きな影響を及ぼすからです。官僚一人一人が哲人王、すなわちフィロソファー・キングでなければなりません。ソクラテスの問いかけは現代にも通じるのです。
倫理性のない専門家を「スペシャリスト(Specialist)」と言います。この類義語として「エキスパート(Expert)」や「プロフェッショナル(Professional)」が挙げられます。しかし、英語でこの三者は意味が異なっています。
エキスパートは、先代からの蓄積した知識並びに自らの修練や体験を通じて技術を磨く者です。職人が代表例です。スペシャリストとプロフェッショナルは、それと違い、理論的な体系の裏づけを持っています。両者を分かつのは倫理性です。スペシャリストは、クライアントへの意識が希薄ですから、保身や組織防衛を優先させます。それに対し、プロフェッショナルはクライアントとの契約の遵守を最優先し、説明責任を果たす職業倫理に基づいています。
アドルフ・アイヒマンに関するドキュメンタリー映画のタイトルが『スペシャリスト 自覚なき殺戮者(Un spécialiste, portrait d'un criminel moderne))であることは、そのニュアンスを踏まえています。エイアル・シヴァン監督による1999年公開の映画が映し出すアイヒマンの姿は倫理性のない専門家の権化です。アイヒマンは、戦局が悪化し、和平を模索している最中でさえ、上司に「命令」を要求し続けています。「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。ほしいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに」。すべてを統計学的に把握する性癖のあったこのスペシャリストには、ドイツの勝利以上に、自らの官僚精神を満足させることの方が大切なのです。「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない」。
昨年、佐川宣寿現国税庁長官を始め政府の国会答弁には、国民の共有財産である公文書の管理に関する倫理性が希薄です。彼らはプロフェッショナルではなく、アイヒマンのようなスペシャリストです。
ところが、政府は、「公文書クライシス」によると、公文書管理にギュゲスの指輪が欲しくてたまらないようです。その姿は依然として倫理なき専門家の有り様です。ただ、そろそろその愛しきものの恐ろしさに気づき、フィロソファー・キングの自覚を持つべきでしょう。指輪の主は、『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムのように、それに溺れ、破滅してしまうものなのです。
〈了〉
参照文献
プラトン、『国家』上下、藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年
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