「汚れた手」としてての政治(1)(2022)
「汚れた手」としての政治─J・P・サルトルの『汚れた手』
Saven Satow
Apr. 12, 2022
「もっといい時代はあるかもしれないが、これは我々の時代なのだ。我々はこの革命のただなかに、この生を生きるよりほかはないのである」。
ジャン=ポール・サルトル
第1章 モラリズムの時代
イデオロギーに基づく体制競争の東西冷戦終結後、世界的に、価値観をめぐる政治的論争・対立・衝突が顕在化し、社会の分断にもつながっている。アメリカ合衆国の「文化戦争」が好例であろう。それは現実的な制作よりも特定の価値観に基づく政治判断が優先される状況をもたらしている。もちろん、日本も例外ではなく、選択的夫婦別姓問題が典型例である。
自身の信じる価値観を優先して、政治における現実的対応を阻害する。こうした政治と道徳の問題をめぐってオーストラリアの政治哲学者C・A・J・コーディー(Cecil Anthony John Coady)が興味深い考察をしている。彼は世界についての道徳的判断力の元になるものを変形する見方、すなわち価値観を「モラリズム(Moralism)」と呼んでいる。
近代は政治と倫理が微妙な関係をしている。これを説明しておこう。
前近代において政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。しかし、16世紀、宗教改革を発端に欧州で宗教戦争が勃発、自身の道徳の正しさを根拠に殺し合いが繰り広げられてしまう。そこで17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方もできない。
ホッブズは、そのため、政治を公、信仰を私の領域に分離、相互に干渉することを禁止する。この政教分離により、近代は価値観の選択が個人に委ねられることになる。
近代はこの政教分離が最も基本的な原理である。しかし、それは政治に価値観が不要だということではない。価値観の選択が個人に委ねられたため、目指すべき理想の社会像も多様化する。前近代であれば、共同体の認める規範が示す理想を構成員は共有している。目指すべき社会像も共通に認識されている。中世のスコラ哲学者アウグスティヌスは、キリスト教徒である自分たちにとって「神の国」が理想であり、人間はそれを参照しつつ、できる限り近づくような社会を実現することが政治だと言っている。けれども、近代人にとっての理想は「神の国」だけではない。政治が現実から理想の社会を構築することを目標にすることは近代でも変わらない。それがなければ、統治の方向性が見出せない。
ただ、近代は共通の一つの理想を持っていない。そのため、政治には価値観の調整が不可欠である。しかも、利害を始めとして現実の諸条件も考慮しなければならない。近代政治はこのように原理的に調整を前提にしている。
そうした機能を果たす制度の一つが選挙である。候補者や政党が価値観に基づく公約を提示して競争する。その結果、統治にある価値観が優先的に反映することになる。しかし、選挙に勝ったからと言っても、自らの信念による政策を政権が実現できるとは限らない。コンドルセのパラドックスが示す通り、世論の望む政策の優先順位が選挙結果に必ずしも反映されない。自分勝手に制作を進めようとしたら、人々はデモや署名活動など抗議運動を行い、政府に再考を促す。また、諸般の事情によりさまざまなアクターの間の調整を余儀なくされる。時間もかかり、政府は大幅に譲歩を迫られたり、実現を断念したりする。けれども、それが近代政治というものだ。
ところが、調整による現実的対応を軽視・無視して自分の価値観を政治的に実現しようとする企てがある。こうした価値観の政治をC・A・J・コーディーは「モラリズム」と呼び、『厄介な道徳(Messy M orality)』において六分類している。
それは「範囲のモラリズム(Moralism of scope)」、「バランスを逸して焦点化されたモラリズム(Moralism of unbalanced focus)」、「押しつけや干渉のモラリズム(Moralism of imposition or intereference)」、「抽象化のモラリズム(Moralism of abstruction」、「道徳絶対主義(Moral absolutism)」、「まやかしのモラリズム()(Moralism of deluted powaer)」である。
「範囲のモラリズム」は「超道徳化(Over moralization)」である。例えば、アルカイダへの報復をしていた米国が彼らへの協力や大量破壊兵器の保有などの理由を挙げてイラクに攻撃を拡張したことがこれに当たる。その根拠がまやかしで、それを国連で訴えたことによりコロン・S・パウエル元国務長官の政治生命が断たれることになる。
「バランスを逸した焦点かのモラリズム」はその特定の文脈を考慮せずに通常の価値観によって非難することである。人権や民主化のためとして、民間人への被害が相当見込まれるのに、武力行使に踏みきることが一例である。
「押しつけや干渉のモラリズム」は普遍性のモラリズムである。例えば、異文化や社会事情を考慮せず自分たちの価値観を他国に当てはめようとすることだ。
「抽象化のモラリズム」は一般化のモラリズムである。具体的な文脈を無視して、価値観を一般化してしまう。それは複雑な状況を単純化して一般論を適用することである。
「道徳絶対主義」は、「抽象化のモラリズム」同様、政治的事象を道徳的に捉える姿勢である。ただ、もっと熱情的だ。例えば、政治指導者の判断と世論を同一視して、その社会にまで失望や幻滅、憎悪が生じることなどがそれに当たる、隅々にまで堕落が及んでいるとして、政治指導者に対する道徳的憤りが社会や人々にも向けられ差別的行動に至ってしまう。
「まやかしの力のモラリズム」は思いこみのモラリズムである。自身の道徳的規範を過度に信奉するあまり、それを相手が知れば、従来の秩序が変わると思いこむ。民主主義の価値観の宣教がその国を変えるという思い上がりの認知行動はこうした一例である。
こうしたモラリズムの弊害は、最近10年間の国内外の政治を振り返るだけでも、数多くあげることができるだろう。その意味で、ポピュリズムによってしばしば語られるこの時期は「モラリズムの時代」と言える。
よい目的のための行動だからそれは正しいとしてモラリズムは暴力を正当化しやすい。けれども、それを克服するために、近代は政教分離を採用している。もちろん、政治にはイデオロギーが不可避であり、また、アパルトヘイトの廃止のように、価値観が現実を変えることも確かである。だから、モラリズムの問題は偏っていることだ。現実主義的対応には調整がつきものである。要求と譲歩の弁証法を通じて均衡に達する。現状を分析、事情を考慮した上で、策を講じる。その際、自身の価値観の相対化が必要である。
コーディーは、この著作の第4章"Engagement in evil: politics, dirty hands, and corruption(悪へのアンガージュマン:政治・汚れた手・腐敗)"において、マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer)とジャン=ポール・サルトルの戯曲『汚れた手』について議論している。ウォルツァーはアメリカの政治哲学者で、現代的正戦論を考察した『正しい戦争と不正な戦争(Just and Unjust Wars)』(1977)で知られる、その彼はは『政治行為と「汚れた手」という問題(Po;itical Action: The Problem of Dirty Hands)』においてこの戯曲を以前に論じたことがある。政治と道徳の問題はニコロ・マキャベリの『君主論』やマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を経由して、マイケル・ウォルツァーを論じるのが当世の流行である。政治指導者は優れたレガシーを後世に遺したり、戦争を回避したり、危機を克服したりするために道徳的制約に反する必要があるか否かを「汚れた手」の問題とウォルツァーは呼ぶ。コーディーはそれを踏襲して議論する。
サルトルの『汚れた手』にはモラリズムに対峙する政治家が登場する。彼は権謀術数の人物で、「汚れた手」をしていることを自覚している。しかし、それは戦争の回避のためである。近代政治の目的である平和の実現に適っている。モラリズムを克服する際にしばしば「汚れた手」が欠かせない。ただ、それは裏切り者や日和見主義者などと誤解されがちだ。そこで、この「汚れた手」としての政治について検討してみよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?