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生きられた超人─長嶋茂雄(3)(1992)

第2節 長嶋のデビュー
 長嶋の登場は大下の試みをさらに一歩進めたものである。大下はあくまでも川上との対立によって語られていた以上、日本の野球を変えたが、六大学の野球を完全に破壊することはできない。玉木は『4番打者論』において「長嶋は、六大学の“正統派”であるライン・ドライブの打球を飛ばしながら、なおかつその距離を伸ばし、立教大学時代に通算8ホーマーの六大学リーグ新記録を樹立した。つまり、彼は六大学の権威者たちに、一切の批判を許さない打法で、ホームランを量産したのだ」と述べている。つまり、長嶋は大下によって変えられた「一球入魂」野球を完全に破壊している(6)。
 V9時代のジャイアンツから日本シリーズでブレーブス全八勝中五勝をあげた足立光宏は、岡崎満義の『足立光宏』によると、長嶋を次のように分析している。「長嶋は動物的なカンとかヒラメキとかよく言われたが、そのヒラメキの下に、豊富なデータ、キチンと身についたセオリーがあった。実にオーソドックスな野球をキチッとしている、という感じでした。そういう野球の常道を行きながら、相手のある勝負事だから突発的な状況が出てくる。するとまさに天才的なヒラメキが彼の頭の中のコンピューターをたちまち修正してしまう。あらゆる戦況に一瞬にして正しく反応、適応してしまう大きな力を感じました。これはかなわない」。長嶋は他人のバットを借りて、よくヒットやホームランを放っている。例えば、大学時代の八本の本塁打はすべて借りたバットで打っている。だが、長嶋は気紛れにそうしたわけではない。長嶋は、ゲームの状況や自分の調子と相手の調子、気温や湿度といった天候を十分に分析した上で、自分のバットがその状態に適していないという結論に達し、意識的にこの条件に合う他人のバットを選んでいる。

 長嶋はこのように伝統的な背景を持ったプレーヤーであると同時に、その背番号もオーソドックスである。長嶋の背番号3は、森昌彦から始まった背番号27によるキャッチャーの系譜とは違って、長嶋から始まった名プレーヤーの番号ではない。長嶋以前にも、ベーブ・ルースや「班長」中島治康、「猛牛」千葉茂、「安打製造機」榎本喜八、大下弘らがつけていたもので、長嶋以後も、明らかに背番号3はスラッガーやスターの背番号となっている。あの江川もジャイアンツにトレードされる前のタイガース時代背番号3である。また、長嶋以前の名プレーヤー、中西の6、藤村の10、野村の19、稲尾の24、金田の34らのように、系譜を持たない彼ら独自の番号でもない(豊田の7はミッキー・マントルにあやかった背番号である)。3は、田淵やスワローズの「ペンギン」安田猛の背番号22のように、同時代的にコミカルなプレーヤーを表象していたわけでもない。しかし、背番号3は長嶋以前はスターやスラッガーという類的なものを指していたが、長嶋以後では長嶋の面影を抱くものに与えられるものとなっている。類的なものから個人へと長嶋は背番号3の意味合いを変換させる。つまり、長嶋は伝統を踏襲しつつも、それを転倒することを示している。

 長嶋の公式戦デビューは一九五八年四月五日の読売ジャイアンツ=国鉄スワローズ戦(於後楽園球場)である。この試合はそのシーズンの開幕戦で、長嶋は三番サードでスタメン出場、ゲームの結果は延長十一回、四対一でスワローズが勝っている。スタンドは「ゴールデンボーイ」長嶋と「天皇」金田正一との対決を見に集まったファンでいっぱいだったと言う。長嶋はこのとき金田に四打席四三振を喫している。金田の長嶋への投球数は全部で十九球で、ストライクは十二球である。十二ストライクの内訳は、空振り九、ファウル・チップ一、見逃しは僅か二である。
 長嶋を四打席四三振に切ってとった金田は野球界の「天皇」と呼ばれている。岡崎満義は、『金田正一』において、「金田天皇」について次のように述べている。

“天皇”は監督より上の存在である。本来なら監督は最高の司令官であるはずで、またそうでなければチームの統制もとれないのだが、“金田天皇”はほとんど“超法規的存在”であった。(略)
 日本の社会と“天皇”の関係は複雑微妙、いわく言いがたいところがある。かつてアラヒトガミであり、戦争に負けてニンゲンになり、やがて“象徴”になり……、つまりカメレオンのようにさまざまに色が変わってきた。それでも“天皇”は日本の社会を貫き、一木一草にまでしみこんでいるのである。戦後“天皇”と呼ばれた人では、映画監督の黒沢明、日本医師会会長の武見太郎(故人)が有名だが、そこに“金田天皇”も一枚加わっている。この三人に共通する“天皇”性とは、合理、不合理のレベルを超え、しかも具体的な実績を積み上げ、その強烈な個性もあいまって斯界に君臨する、という形の存在である。

 “天皇”を必要とするジャンル、野球社会の古さをあげつらうのはやさしいが、彼らが“天皇”の実力で革新し、レベルを押し上げていったのもまた事実である。

 金田の投手としての力は同時代的に一頭地をぬいていたことは確かだし、彼が日本の投手の意識を変えるきっかけを担っていたことも認められる。だが、たんに野球の力や実績、迫力があるだけでなく、そこに日本的なシステムの何ものかを内包していなければ“天皇”とは呼ばれない。かつて監督に逆らった藤村富美男や金田正泰といったプレーヤーもいたが、彼らは一人として“天皇”とは命名されていない。そこからも、金田の存在は日本の縮図だと言うことが理解できる。

 金田の在籍していた国鉄スワローズは、万年最下位の広島カープほど徹底的に弱いチームではなく、日本浪漫派の言う日本のように、はかなく哀れっぽい弱小球団である。そこで金田はジャイアンツや名選手を憎み続けて、自分をなだめている。金田は他人に負けたくないという情念にとらえられ、人より上に立ちたいという欲望においてのみ生きているプレーヤーである。金田はつねに自分より上位の誰かに対する「反感」に囚われ、その反感を増幅する中で生きている。

 金田にはルサンチマンを晴らすことに生の理由がある。金田は誰もが驚くは猛練習、徹底とした自己管理、圧倒的な野球の能力、並外れた負けん気の強さ、旺盛な自己顕示欲によってお粗末なバックであっても、勝ち星を重ねていく。弱く下手なスワローズのメンバーは反感や負い目を抱く。監督に誰がつこうと、金田は自分のやり方を通し勝ち星を積み重ねる。とうとうローテーションや投手交代も自分の勝ち星につながるように首脳陣に指図する。金田が監督の上にいられたのは、ファンもそれを支えたからだ。弱者としてのファンが金田に自分の反感を晴らすことを同一視している。金田は野球において怨恨によって成り立っている無としての天皇制に類似したことを体現して見せる。つまり、金田が“天皇”たり得ていたのは、野球の実力が優れていただけでなく、反感をうまく組織化できたからである。

 従って、まわりの凡庸なプレーヤーを見て自分の優越感を味わっていたため、金田には、「オールスター九連続奪三振」や「江夏の二一球」、「ノーヒット・ノーラン延長さよならホーマー『野球は一人でもできる』」によって語られる江夏豊のような、見せ場というものがない。通であれば完全試合のエピソードを知っているだろう。しかし、その前を聞いて市井の人々が思い起こすのはあの試合だけである。金田の見せ場は実質的に長嶋のデビュー戦のみである。

 また、金田の記録の中で、現在大リーグを上回るものはほとんどない。勝ち星では、サイ・ヤングが五一一勝を、国鉄スワローズ以上に弱いワシントン・セネタースでウォルター・ジョンソンが四一六勝をあげているし(完封試合一一三の大リーグ記録を持っている)、奪三振においては、ノーラン・ライアンが五千奪三振を達成している。黒人リーグを除く投手部門の主な世界記録としては、スタルヒンや稲尾のシーズン四二勝や江夏のシーズン奪三振四〇一だけであり、金田の記録は日本国内で通じない“天皇”の記録である。

 長嶋が金田から一打席でもヒットを打ったならば、ルサンチマンの回路を増幅することになり、自身もそれに組み込まれてしまう。長嶋は抑えることや勝つことだけに躍起になっている“天皇”金田から豪快に且つ美しくそのすべてを三振することによって、野球の既存の価値を転倒し、金田のその回路を破壊する。金田はジャイアンツに挑むことによって反感を晴らし、自分の生き方やその満足や不満足をいつも他人の評価だけから見ている。それは、金田がジャイアンツに入ってからは成績が伸び悩んだことからも、明らかであろう。長嶋はその金田の前で三振して見せることによって、ルサンチマンが実は生の否定にしかすぎないとファンに示す。

 長嶋は三振の美しさを初めてファンの目に触れさせる。大下はアベレージ=ホームランという機軸にいたのであり、ホームランは日本プロ野球の転倒を表している。一方、長嶋は三振という野球において最も貶められていたものの一つを美として表したのであり、それは野球そのものの転倒である。

 長嶋は構えの段階でそれまでの名のあるバッターとは違っている。「神様、仏様、稲尾様」と称された稲尾和久は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、長嶋と初めて対戦したとき、評判ほどにない、「何とスキだらけの打者や」と思ったらしい。しかし、木鶏だった長嶋にその直後自信を持って投げた外角のボールを見事にライト線にスリー・ベースを打ち返されている。また、金田は、岡崎満義の『金田正一』によると、「長嶋のよさってのはフリースタイルであること。獲物を狙う鷹の目で、思いきったら、空振りしようが、納得ずくで振ってくる。いまの原辰徳なんかが、詰まったとか、体が開いたとか、そんなことは関係ないんやね。開くなら最初から開いとけ、というのがシゲのバッティングやった。手の出がわからんのが優秀なピッチャーなように、バッターもバットの出所がわからないのが、投手にとって一番嫌な打者。バットのヘッドがいつもあとに残っているものだから、最後の最後までヒヤッとさせられる。ものすごい迫力だった」と回想している。

 この稲尾や金田の長嶋に対する分析は、長嶋がどういう打者であったのかをよく伝えてくれる。長嶋は、プロ入りしてから、努力や苦労といったことを一切口にせず、表情にしても、プレーにしても、そんな気配すら微塵も感じさせない。長嶋はつねにファンにアピールするプレーをこころがけ、走者になると小指の先までもピンと伸ばして全力疾走を試み、空振りするときもヘルメットの美しい飛ばし方を考慮し、どんな平凡なゴロを処理するときもファインプレーに見せるように、長嶋はすべてにおいて自由にプレーしている。玉木は、『4番打者論』において、「ファンにアピールするプレーを見せ、チャンスに強く、自らの打棒でチームを勝利へと導く牽引車──それが、長嶋のつくりあげた『4番打者』像である。これはまさしくファンにとっての理想というべきもので、その特徴をひと口でいうなら、『ファンを喜ばせた』ということになるだろう」と述べている。一打同点あるいは逆転の場面に、ファンが期待するのは、目の覚めるような走者一掃のバッティングである。長嶋は、そんなシーンに登場すると、四球を選ぶことをしようとしない。長嶋は、逃げの投球をする投手に対して、少々の悪球に対しても飛びついたりすくいあげたりして強引にでもヒットにしている。起死回生のヒットを打とうとした結果が、たとえ内野ゴロや三振に終わったとしてもファンは彼の「意欲」を肯定する。またそのときのヘルメットを宙に飛ばし、ユニフォームの胸のマークが一八〇度回転している空振りや、手を広げて一塁までの全力疾走の姿の美しさにファンは満足するのである。「美はどこにあるか? わたしが一切の意志をあげて意欲せざるをえなくなった時と場合とになる。形象が単に形象として終わらないように、愛し、没落することをわたしが欲するようになったところにある」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)。

 川上も新たな四番打者像をつくりあげたことは否定できない。川上ほどシステムを理解していたプレーヤーもいない。川上は、その意味において、野球界のヘーゲル的存在である。川上の功績はシステムを理解し顕在化させたことであって、V9にあるのではない。長嶋は川上の後を継いで四番打者になる。長嶋は「神様」川上の後に、「神の死」を宣告して登場するのである。生きられた超人である長嶋の存在の後では“天皇”によって野球のレベルを上げる必要もなくなり、“天皇”も無意味な存在になる。

 大下は、マルクスが大陸諸国から追放されイギリスに亡命したように、東急球団ともめ、トレードによって九州に行く。その大下はあくまでも川上の体現していた四番打者像の土台にある。大下は、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』において誇らしげにヘーゲルの弟子と記しているように、誇らしげに川上を師匠としていたと『大下弘日記』で認めている。大下の川上の転倒はマルクスのヘーゲルのそれになぞらえられよう。他方、長嶋の川上の転倒はニーチェのヘーゲルの転倒である。マルクスはヘーゲル思想の土台を受け継ぎながら、それを変革したのに対して、ニーチェはヘーゲル思想の土台そのものを否認する。大下はマルクスであり、長嶋はニーチェである。それでは、マルクス・ニーチェ・フロイトの思想の三頭政治と呼ばれるトリオの一人フロイトは誰であろうか? 長嶋の次の四番打者は誰だろうか?

 それは王貞治だろうか? 王は長嶋に対してルサンチマンを抱いている。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋と王の著作を読み比べると、長嶋がONの関係を楽天的に見ているのに対して、王は長嶋と一度も酒を飲みにいかなかったことを思い出しながら、「どうして記録ではOはNに勝っているのに、人気はNがOをしのいでいるのかと内心の不満をぶつけている。そしてその不満をバネにして、さらに高い記録へ飛翔しようとしている」と指摘している。吉目木晴彦は、『伝説の生まれる時─沢村栄治と王貞治』において、「プロ野球について論じる場で、彼の名前が挙げられることは、その実績の偉大さに比べれば驚く程稀である」理由は、王が「仮に歴史をやり直すことができたとしても、すでに彼が実現した以上のものを残すことはない」から、すなわち王の物語は完結した「成功者の物語」であり、ファンに「想像の種子」を王は置いていかず「ファンの想像力が介在する余地はない」からだと述べている。つまり、「王貞治は自分が何者かであったかの証明を、自分の手で野球の歴史に書き残して去って行ったのであり、ここには残された歴史を読む側の、裁量的な評価が介在する余地はない」。すなわち、王は認識論的枠組みで過去を構成・解釈する歴史主義者である。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋を「虚実一体」と定義し、王は「実」に固執し、「心技一体」に向かったと述べている。だが、そもそも記録なるものはある時代や場所、使用されている道具という諸条件の下でのエピソードである以上、歴史主義も含めてすべてはエピソードであり、「実」すらも「虚」である。王の通算本塁打数八六八本は世界記録ではない。黒人リーグの「スーパー・キャノン」ジョシュ・ギブソンの九六二本に次ぐ世界第二位の記録である。王が「実」と唱えたのは自分自身を救済するための「物語」だ。長嶋の提示した「虚」とは、他のすべての「虚」を飲みつくす強度の力を持ったものである。王は長嶋の歴史主義批判の後では次の四番打者とは言えない。

 それでは、田淵幸一だろうか? 田淵は確かにルサンチマンを抱かない。日本プロ野球史上でも、中西太と一、二を争うバットのヘッド・スピードと打球の飛距離、「ホームランアーチ」と「アーティスト」をかけた「アーチスト」と呼ばれ、無限のかなたへと誘う雨後の虹のようなディズニーの映画を思わせた飛球線、怪我や病気で試合を欠場するというシリアスな出来事にあっているにもかかわらず、努力や苦労、汗といった生活感を感じさせない甘いマスクの中の呑気な表情、やることは凄いのだがなぜか笑える。それが田淵幸一というプレーヤーである。犠打を一度もしたことのない田淵は、美しいホームランによって、野球においてフェンスの彼岸は無限なのだということを最も示し、打撃の技術論やバッテリーとの心理戦といったメロドラマを忘れさせる。すなわち隙間を埋めるための言葉を長嶋以上に必要としない唯一の天真爛漫なプレーヤーである。つまり、田淵は長嶋の四番打者像に磨きをかけたのであり、次の四番打者ではない。

 だとすれば、フロイトとしての四番打者は誰だろうか? それは落合博満であると言わざるを得ない。落合の信子夫人の接し方はまさにリビドーのエディプス・コンプレックスとしての現れであり、あの有言実行は無意識の顕在化と見なすことができる。落合はインタビューを受けたり、解説をしたりしているとき、「そうじゃなくて」という否定の言葉を必ず口にする。これは落合がフロイトの精神分析を実践している証拠である。「判断の働きを遂行するには、否定の象徴の創出を通してのみ可能である」(フロイト『否定』)。「無意識には否定がない」からこそ、落合は否定を投げかける。年齢を重ねるにつれて評価が高まったことや弟子の離反があったこと、ジャイアンツを追われたことも、まさに、フロイト的だ。落合は長嶋のつくった四番打者像を新たにつくりかえたバッターである。それを考慮すれば、監督としての落合の選手への接し方は当然である。フロイトは、自伝の中で、自分は子供の頃から両親につねに鼓舞されて自身を与えられてきたから、それが暗黙の自信になっていると記している。落合はこのように選手に接している。長嶋が絵画を好んだのに対して、落合は映画を愛している。その映画への愛が監督としての落合の選手への接し方を決定づけている。映画は下手くそを偉大にできる。「演義経験のないふつうの人が映画に出ると、自分が見せる立場に立っているという自覚より、自分が見られているという羞恥心の方が強いでしょうから、技術としてのはハードルをどう越えて行くかという発想をもちません。それに代わって、ふだんは意識してないけれど、その人に備わっている生活感覚、自然感覚、といった、根太いなにものかがそこで手探りされていくように思えます」(小栗康平『映画を見る眼』)。

 今や、四番打者というものそのものを破壊し、新たな打者像を創出したプレーヤーが登場している。イチローである。イチローは誰なのかをまさに体験している。

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