ロバストネスとしての震災芸術(2011)
ロバストネスとしての震災芸術
Saven Satow
Mar. 20, 2011
「私らは海に依存して生きてきた。今度、海にこんなにも痛めつけられた。でも、これからも海に依存して生きていくしかない」。
東北のある被災者
2011年3月11日14時46分以来、表現者たちは地震に津波、原発事故といった相次ぐ事態にどう向き合い、どのように表わしていけばいいのかと苦悶していることだろう。自身が体験したものや家族や親戚、友人などが被災したもの、心を痛めているものもいるに違いない。それぞれにめいめいの3・11がある。
文学やマンガ、美術、音楽、映画、舞台、パフォーマンスなど領域は違えども、震災をめぐる表現活動を「震災芸術」と呼ぶことにしよう。すでに少なからず作品が発表されている。しかし、中には、震災芸術が何たるかをわかっていない恣意的なものも見受けられる。震災以前に普段からこの人はどう芸術にとり組んできたのかと怒りを通り越して呆れる。非常に残念である。
これを考えるときに、その本質を教えてくれるのが東京スワローズの宮本慎也である。日本プロ野球選手会前会長は、スポーツ紙・夕刊紙によると、以下のように発言している。3月16日、25日開幕強行に理解を求める球団首脳に対し、「納得できる理由が何一つなかったので、無理ですと言いました。選手会は144試合をダブルヘッダーでもやると言っている。それでもなぜ開幕にこだわるのかわからない。損得を考えているしかないでしょう。野球で勇気を与えるというけれど、今はまだその時期ではない。思い上がりもいいところ」と反論している。さらに、この名内野手は、電力不足に喘ぎ、計画停電が頻発する関東でナイターを開催する予定のセ・リーグの意向に対して、18日、「僕は家のトイレの電源も切っている。そういう状況の中、煌々と電気をつけて野球をやっている場合じゃない」と批判している。
これは非常に示唆的である。プロ野球のできることには限界があり、それは人々と共有するものがあって初めて成り立つものだとこの08年北京五輪日本代表は主張している。共感させられる意見である。
芸術のできることには限界がある。まず真摯にそれを認める必要がある。安易に、「勇気を与える」とか、「元気づける」とか、「励ます」とか、「支える」とか思わぬ方がよい。現段階で、芸術自体が何かをできると考えるのは「思い上がり」になりかねない。その上で、被災者を含めた人々とこの出来事をめぐって共有できるものは何かを探すべきである。「自分にできることは何か」ではなく、「自分に求められているのは何か」を表現者は問わねばならない。震災は主観性を超えている。自分の中から沸き上がってくるものを表現するだけでは不十分である。人はたんにつながりを求めているのではない。価値観を共有すること、すなわち価値観を協同で創造することに充実感を見出す。それを表現していないものは震災芸術ではない。そこには公共芸術の精神が要求される。
これをよく理解しているのが渡辺謙である。この世界的な銀幕のスターは自らの限界を承知している。それを踏まえ、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の朗読をネット上で動画公開している。宮沢賢治は東北を代表する作家の一人であり、1931年の東北大飢饉によって経済が壊滅的な状態に陥った農村の惨状を前にこの詩を書いたことが明らかになっている。この『ラスト・サムライ』の主演俳優が被災者と共有するものを模索し、表現しようとしていることは、その配信サイトの名称「Kizuna311」からも、痛いほどわかる。『雨ニモマケズ』という共有された詩の朗読を通じて、3・11の被災地域との「絆」を確認し、「助けあい、乗りこえる。私たちの財産は [kizuna]」というメッセージを発している。真に心温かい表現である。
芸術がある意味で社会の価値基準の中では無能準無意味であると見なしている表現者がいるとすれば、それは主観性に耽溺しているだけである。社会の中の芸術を考えてこなかったと言っているに等しい。芸術は、社会にとって、「ロバストネス(Robustness)」である。それは状況が変化しても対応できる柔軟な強靭性を意味する。遊びのないハンドルを握るのはぞっとする。芸術はゆとりや無駄、すなわち遊びであるからこそ、人間が周囲状況が変化した際に対処する知恵として機能する。
芸術が社会の自己治癒力の回復を手助けすることもその一つである。仙台市宮城野区の宮城の小学校の避難所では、2011年3月19日付『朝日新聞』によると、子どもたちが自主的に手作りのすごろくやお菓子でゲームなどをしている。これは遊びの持つ自己治癒力回復の一例である。阪神・淡路大震災の際にも、避難所でマンガを読んでいる子どもたちの姿が見られている。表現者は芸術のロバストネスをもっと認識すべきである。
表現者は思い上がることなく、自らの限界を認め、協創の精神に基づく作品を示すべきである。そうした真摯な姿勢が今求められている。
〈了〉
参照文献
Kizuna311
http://kizuna311.com/