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戦後70年の反戦文学に向けて(5)(2015)

第5章 15年戦争と反戦文学
 1931年9月、満州事変が勃発する。以後、15年間に亘り、日本は中国大陸や東南アジア、太平洋の各地で戦闘を繰り広げることになる。この最初の軍事衝突が「満州事変」と呼ばれ、「満州戦争」ではない理由は、当時、すでに戦争が国際法上違法だったからである。戦争ではなく、日本としては、これはあくまで「事変」と言いつくろう必要がある。41年12月8日に日本がアメリカに宣戦布告するまで、紛争には「戦争」ではなく、「事変」が用いられている。

 15年戦争は近代日本史上最大規模の戦争である。この間の記憶は戦場であれ、銃後であれその時代を生きた文学者に決定的な影響を及ぼしている。玉砕や特攻、空襲、疎開、引揚などはこの戦争が新たにもたらした記憶だ。

 晶子は1942年に63歳で亡くなっている。しかし、彼女は、満州事変から始まる戦争に対して、日露戦争と違う姿勢で臨んでいる。翼賛はしていないが、時流に抗うと言うよりも、流されている。42年1月に出征する四男を送る次のような歌田を詠んでいる。

 水軍の大尉となりて我が志郎み軍にゆきたけく戦へ

 かつての反戦文学者をこの歌から見出すことは難しい。日本列島が戦災に見舞われたり、戦場になったりしたのは太平洋戦争の末期である。それまで戦争は海の向こうで行われている出来事である。その間は情報統制も可能であるが、B29の大編隊が列島に飛来するようでは、大本営発表への信頼は地に落ちる。確かに、晶子はそれを目にする前に永眠している。

 しかし、晶子の変節は満州事変以前から始まっている。1928年に張作霖爆殺事件が起きている。実は、彼女は旅先でこれに遭遇しており、関東軍による謀略という真相を知っていながら、沈黙している。

 前近代の規範に訴えて近代戦争を批判するレトリックは国民意識が浸透した時代には効力を持たない。弟と違い、四男は日本国民として教育を受け、成長している。反戦文学には別のレトリックが必要だが、晶子は生み出し得ない。

 15年戦争の間、体制や時流に迎合した文学者は少なくない。中には、マルクス主義の影響を受け、その後に転向した戦争協力者もいる。彼らには理想と現実の調停の跡が見られない。現実と遊離した理想ばかりを追求し、当局の弾圧に遭うと、それが反転する。理想を捨て、現実を無批判的に追認する。

 こうした文学者には日露戦争当時の晶子の方法論が生かされていない。私の領域を突き詰めながら、公の問題に異議申し立てを行う姿勢に乏しい。典型が政治と文学である。政治は公、文学は私の領域と分離して把握する。文学は政治に奉仕する、もしくは政治から零れ落ちるものを扱うとして創作している。

 近代において公私の区別が重要であるからこそ、両者の関係を再検討しようと言う思想潮流が生まれている。フェミニズムは私的と見なされている領域が公的権力関係に余滴定されていると告発する。家庭は私的領域である。しかし、そこで行われる介護はなぜ女性が主に担っているのかと言えば、性別役割分業を正当化する社会構造があるからだ。公が私に干渉している。また、また、イ近代の個人主義に立脚する公共性に対して、スラームを始めとする宗教は共同体からその改善を要求する。社会的弱者がいても、ある一定人数量いなければ、邦や制度でなされるのだから、救済の対象にはならない。人間は神の前で平等であり、宗教は自らの公共性に則り救いの手を差し伸べねばならない。

 こうした思想潮流は1970年以降に顕在化してくる、しかし、理論として確立しているかどうかではなく、日本の実情を認識しているならば、公私の関係を自分なりに考えることは十分に可能である。形而上学的に理論として語ることができなくても、表現的に思想と言い表すことはやれる。

 近代は自由主義によって推進される。それは理想を追求するあまり、時として、現実を軽視する。そこで保守主義が現実に立脚して加熱した流れを鎮静させ、変化を休止的ではなく、漸進的にする。自由主義と保守主義の調停が近代の進展である。

 戦前の日本は保守主義が強い。政友会と民政党の二大政党はいずれも保守主義に立脚している。近代を迎えた際、名主など地域の有力者が政治家になっている。彼らは名望政治家と呼ばれる。藩閥政治打倒を掲げる政党は地方から中央を包囲する戦略をとる。そのため、地方の有力者に支持・参加を呼びかける。名望家たちは政党を通じて地方を中央政治と結びつければ地元を発展させる機会と捉える。両者の利害はこのように一致する。

 名望家は知識人ではない。中国は科挙があるため、各地に士大夫がいる。彼らは知識人として地域の民衆を指導する。ところが、日本に科挙はない。地域を運営する責任者は名主などの村役人であるが、農民身分であり、知識や教養は士大夫に遠く及ばない。理想を制度化し、運用するには、体系的認識が不可欠であり、知識人でなければできない。知識人がいなければ、理想に基づいて新たな法や制度を編み出すよりも、蓄積されてきた習慣を前提にして社会を勧めていく方が選ばれる。知識人の不在が戦前の政治における保守主義の優勢をもたらしている。

 15年戦争は総力戦であるから、当局は言論を厳しく統制する。文学も戦争に動員される。治安維持法を利用して時勢に逆らう作家や編集者を逮捕・拘束できる。問題のある出版社には紙を配給すれば、本を刊行できない。軍や政府は戦意を高揚させる作品を求め、反戦文学を封殺する。銃後で体制協力させるだけでなく、火野葦平のような従軍作家も活動させる。作家は残酷な戦場や堕落した軍隊の実情を告発しようとしても、当局は検閲によって公にさせない。

 第二次世界大戦は近代史上初めて兵士よりも民間人の犠牲が多かった戦争である。前線と後方や戦場と銃後の区別も次第に曖昧になる。空襲や市街戦を始め無差別攻撃が常態化し、ジェノサイドなど人道に反する犯罪が行われている。戦争をめぐる表現は兵士によるものだけでは不十分である。非戦闘員にとっての戦争も表される必要がある。

 日本は軍人の方が民間人よりも死者が多い。玉砕や特攻など他の軍ではありえない非合理的な作戦も展開されている。けれども、沖縄では県民の4分の1が犠牲になり、それには。帝国軍人を加害者とする被害者も含まれる。また、東京や広島、長崎など1日にして10万人以上が亡くなっている。短期間のうちに極めて大勢の民間人がこの世から消えている。こうした光景を無視して戦争について語ることは許されない。犠牲者に八老若男女に及び、子どもも含まれる。「将来の夢は兵隊さん」と胸を張る子どもはいない。なのに、今紛争地域で少年兵の問題が深刻化している。

 戦後、これだけの犠牲と被害をもたらした戦争に協力した文学者の背金が問われるのは、むしろ、当然である。本意ではなかったと言い訳をしても、説得力がない。『日本文化私感』の坂口安吾などさまざまな手段で戦時体制に抵抗した文学者もいるからだ。占領期、文学者の戦争責任が追及される。

 その際に独自の認識を見せて登場したのが吉本隆明である。彼は転向作家を批判しただけではない。現実を無視して理想に固執した文学者は現状を放置したことと同じで、転向作家と同様の責任があると糾弾する。彼はそうした作家を「非転向の転向」と呼んでいる。

 戦後は史上最も戦争に関する文学作品が発表された時期だろう。一兵卒として軍隊や戦場で味わった非人間的な体験に基づく反戦文学が登場する。野間宏や大岡正平、大西巨人などがそうした代表である。しかし、戦闘員の語る戦争は全体ではなく、その部分でしかない。さまざまな立場からの戦争が表現される。時期も戦争中のみならず、戦後の混乱期も扱われる。井伏鱒二の『黒い雨』を忘れることはできない。

 さらに、戦争は極度に人間中心主義である。土家由岐雄の『かわいそうなぞう』nように、動植物などの自然環境からも戦争は描かれている。戦争は人間が巻き込まれるだけではない。環境も壊される。反戦文学は範囲を限定されない。

 戦争は歴史であり、伝統的な私小説の方法論では扱いきれない。戦後文学は戦争にどう向き合うかをテーマに形成される。集大成が大江健三郎だろう。彼は戦後文学の諸問題を作品にとりこんでいる。しかし、その意欲的な試みによって彼以降の文学者は戦争から解放されたかのように歴史より離れていく。


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