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同時代的視点─小林多喜二の『蟹工船』(1)(2008)

同時代的時点─小林多喜二の『蟹工船』
Saven Satow
Aug. 31, 2008

「労働者諸君! 君らもハンマーを捨て、ペンをとれ! 聞こえているか!」
車寅次郎

 半ば忘れられていた作品が突如としてリバイバルすることは必ずしも珍しくはない。それが表象していた時代や社会から離れ、新たな読み方が提起されて甦る。一九七〇年代に起きた横溝正史ブームはその一例である。それは「ディズカバー・ジャパン」の時代の雰囲気をうまくすくい上げた角川春樹による販売戦略の結果であり、斜陽と言われて久しかった日本映画をメディア・ミックスによって活気づけるという新しい試みも示されている。

 しかし、二〇〇八年における小林多喜二の『蟹工船』のベストセラー化はそれとはまったく異なっている。確かに、このプロレタリア文学の代表作は文学史には必ず登場する作品であるため、年間四〇〇〇部から五〇〇〇部は売れている。けれども、六月までの二〇〇八年上半期だけで三六万部弱が出荷されたというのは、やはり一つの流行現象と考えるほかない。

 これは、古典的なマルクス主義を同時代的理論として訴えていた青木雄二の『ナニワ金融道』のヒットとも違っている。きっかけは二〇〇八年一月九日付『毎日新聞』の文化面に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛の対談である。彼らは、現代日本でのワーキングプアに陥っている若者たちの状況が『蟹工船』の世界に通じていると指摘する。インターネット・カフェや個室ビデオ店などで夜を明かさざるを得ない若年層が街に溢れ、寄せ場が日本全国に拡大している。プリミティヴな自由放任の資本主義から脱却して、福祉国家の資本主義に移行したと持っていたら、『蟹工船』を読むと、実際には、八〇年前とさほど変わらない状況に舞い戻っていることに気づかされる。

 しかも、この小説は、途方にくれ、泣き寝入りするのではなく、団結して戦うことを示唆している。記事を読んだJR上野駅構内の書店「BOOK EXPRSSディラ上野店」の店員で元フリーターの長谷川仁美が『蟹工船』の販売促進を仕掛けると、多いときで週に八〇冊も売れるヒットとなり、他の大型書店も追随し、ティッピング・ポイントを迎えている。

 『蟹工船』の流行は、明らかに、通常のリバイバルとは違っている。『獄門島』(一九四七―四八)や『八つ墓村』(一九四九―五一)、『犬神家の一族』(一九五〇―五一)があくまでも古典として読まれたのに対し、『蟹工船』は同時代的作品として受容されている。『蟹工船』は古典として新たな読まれ方によって復活したのではない。まるで新作であるかのように、八〇年近く前の話題作を若者たちが手にしている。これは極めて稀なケースであり、ちょっと思いあたらない。

 『蟹工船』は、一九二九年、『戦旗』誌五月号に前半、六月号に後半が掲載される予定だったが、六月号が発売禁止処分を受けている。しかし、七月には、新築地劇団によって帝国劇場で上演されている。九月に、戦旗社から単行本が刊行されるが、一万六〇〇〇部出たところで発禁となり、一一月に改訂版が出版される。この状況にもかかわらず、半年間で総発行部数は三万五〇〇〇部に及んでいる。

 売れ行きだけでなく、批評家からも賞賛をもって迎えられる。平林初之輔は、シカゴの祝肉工場での労働実態をすっぱ抜いた『ジャングル』のアプトン・シンクレアになぞらえて、『蟹工船』の多喜二を「日本のシンクレア」と評している。しかも、いわゆる左翼的な作家たちからの評価だけではない。八月、『読売新聞』紙上で、多くの作家がこれを一九二九年度上半期の最高傑作に推している。

 なお、多喜二は、『蟹工船』発表直後、小樽警察に召喚され、以下の記述について取調を受け、翌年六月、治安維持法違反で投獄された際、不敬罪の追起訴を受けている。

「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った」
「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」
 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。
 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異ってしまっていた。
「俺達の本当の血と肉を搾り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
 皆そんな気持で作った。
「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 「献上品」に「石ころでも入れておけ!」とは何事かというわけだ。

 この話題作のプロットは次の通りである。基地の函館から、蟹工船「博光丸」が帝国海軍の護衛に守られて出漁する。食いっぱぐれた土方や坑夫、百姓、漁師、人夫、学生らが斡旋屋の口車に乗せられて季節労働者として乗船しているが、お国のためという名目の下、劣悪の労働環境の中で彼らはこき使われている。当初はバラバラだった労働者もある漁夫の病死をきっかけとして、階級意識に目覚め、次第に団結していく。

 漁夫のサボタージュを発端として、労働者は全船でストライキに入る。一旦は成功したかに思われたが、経営者側が海軍に要請し、駆けつけた駆逐艦から乗りこんだ着剣の水兵によって鎮圧される。駆逐艦が見えたときには助け舟がきたと世と込んだ労働者たちだったけれども、軍隊は所詮自分たちから搾取する側の手先に過ぎないと気づき、再度、蟹工船内で階級闘争を挑むことになる。

 舞台となった蟹工船は、缶詰作業の設備を備えた工船を母船とし、備付け操業船の川崎船で捕った蟹をそこで缶詰加工する移動工場である。川崎船は母船の舷に吊るされ、漁場に到着すると、発動機船に曳かれて投網する。一二、三トン程度の小型漁船で、通常、一母船に八から一〇隻がつく。

 北洋漁業は、当時、ソ連との間で漁業権をめぐって対立しながら、国策企業として成長している。蟹工船は、ソ連に睨みをきかせるため、海軍が漁場まで護衛している。一九二七年のデータでは、四七万トンの北洋漁業関連の漁船が出漁し、約二万人の漁業労働者が従事しており、その内、「監獄部屋」と揶揄された蟹工船は四〇〇〇人超である。

 漁場となる海域は激しい嵐が頻繁に吹き荒れたり、霧が発生して視界が悪くなったりするなど天候が目まぐるしく変わるだけでなく、夏でも気温が一〇℃前後までしか上がらない。こうした気候条件の下での厳しい労働が長期間に及び、おまけに船内では船長や漁労長、監督官による労働者への暴行・虐待が頻発したため、待遇改善を要求する労働争議も少なからず行われている。また、操業を続けるのは危険だと推測できる状況でも強行されることも多く、漁船の遭難も珍しくなく、数百人規模の犠牲者が出る事故もしばしば起きている。

 プロレタリア文学は、従来、読者受けを狙って明るさが強調されていたが、プロットからもわかる通り、『蟹工船』は非常に暗い作品である。多喜二もそれは自覚している。

 彼は、一九二九年三月三一日付蔵原惟人宛書簡において、「プロ芸術大衆化のために、色々形式上の努力がなされている。それは重大な努力である。然し、実際に於て、それが結局『インテルゲンチャ風の』──小手先だけの『気のきいた』ものでしかない点がある。現実に労働している大衆を心底から揺り動かすだけの力がない。そんなインテル性に、労働者は無意識に反揆する。自分は、(イ)作品が何より圧倒的に、労働者的であること、(ロ)その強力な持ち込み、に、大衆化の原則を見出している。更に、プロ文学の『明るさ』『テンポの速さ』など、良き意図のものが、その良き意図にも不拘、モダン・ボーイ式であり過ぎないだろうか。この作には、モ・ボ式の『明るさ』も『テンポの軽快さ』もない、又その意味での小手先の、如何にも気のきいた処もない。何処まで行けているか知らないが、労働者的であることにつとめた。(『戦旗』には、ことにかけていはしないだろうか。)」と言っている。

 確かに、多喜二は視覚的・聴覚的な表現を次のように駆使し、非常に印象に残る文体でつづっている。

「おい地獄さ行ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱《かか》え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖《かたそで》をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽《おたる》の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。
 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断」されていた。
 苦しくて、苦しくてたまらない。然し転んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな……?」
「殺されるのさ、分ってるべよ」
「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
 トブーン、ドブーンとゆるく腹に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶《てつびん》のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。

 こうした大胆な表現の独創性は認められると同時に、多喜二は既存の文学を大いに援用している。『蟹工船』は、周知の通り、葉山嘉樹の『海に生くる人々』を本歌取りとし、多くの論者が指摘しているように、そのわずかな相違点が決定的に重要である。


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