自尊感情と自尊心(2012)
自尊感情と自尊心
Saven Satow
Jul. 04, 2012
「もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、このことで、自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身の内にも事物の内にも、何一つとしてないからである」。
フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志』
心理カウンセラーであり、道徳教育の専門家でもある林泰成上越教育大学大学院教授は、『道徳教育論』(2009)において、自身の経験を踏まえ、最近の子どもたちの特徴として次の三つの低下を指摘しています。それは、「規範意識の低下」・「自尊感情の低下」・「人間関係力の低下」です。
第一は規範意識の弱い子が目につくようになった点です。大人だってルール違反をすることはあります。ですから、問題なのは決まり事や約束事を破ること自体ではなく、それに対する態度です。ルール違反を意識したときには、後ろめたさがあるものです。けれども、ルールを破っていると知りながら、悪びれもせずにいる子どもが少なからずいるのです。
ただ、これには捕捉が必要です。デジタル技術の進展に子どもたちの道徳的発達がついていけない場合もあるのです。ある高校生が同級生を嫌っているとします。知り合った他校の生徒たちから携帯電話を借りて、こっそりその子に嫌がらせメールを何通も送りつけます。受信した子は不安に思い、警察に相談、ほどなく、同級生の仕業と判明します。送信した子は脅迫容疑で警察に逮捕されますが、ほんの悪ふざけのつもりだったと犯罪者扱いに納得がいかず、反省もしません。発展したデジタル技術のもたらす結果の重大さが子どもの道徳的発達と齟齬をきたしているわけです。
第二は自尊感情の弱い子が増えた点です。「自尊感情(Self-esteem)」は「自尊心(Pride)」と違います。両者を分かつのはルサンチマンの有無です。前者はルサンチマンがなく、ありのままの自分を受け入れる心情です。他方、後者は他との比較によって自分の優越感、あるいは自意識の優位性を感じようとするルサンチマンです。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。ところが、それと反対に、自尊心の方がやたら強いのです。自尊感情の不足を自尊心で補っているとも言えます。自尊心がパンパンに膨れ上がり、ちょっとした刺激で破裂しそうな小さな風船のようになっています。
第三が人間関係をつくる力の弱い点です。これは新規の関係だけではありません。既存の関係を補修しながら維持していくことも含まれます。人間関係には誤解や不和がつきものです。けれども、そのトラブルを修復していくことで、人間関係が長く続くだけでなく、質的に高められていくこともあります。ぶつかり合いやすれ違いは人間関係構築の力を強化する絶好の機会でもあるわけです。ところが、対立が生じると、そこで傷つき、回復できないまま、カウンセラーの元を訪れる子が少なくないのです。
トラブル・メーカーはこの三つを併せ持っている場合が多いのです。自尊感情が弱く、自尊心が強いため、些細な言動にも過敏に反応してしまいます。思春期は自意識過剰なものですが、度を越しています。「髪型が変」と言われたくらいで、いきなり激高し、規範意識が低いので、相手を否定するようなことをしてしまいます。自尊感情が低いため、自分を抑制できず、こうした言動を過激化して繰り返すのです。その結果、人間関係が取り返しのつかないくらいに壊れてしまいます。
こう指摘する林教授は決して懐古趣味者ではありません。昔を引き合いに出して、今の子どもの姿を嘆く人ではないのです。彼は、映画『Always 三丁目の夕日』に言及しつつ、「昔はよかった」という言い方を厳しく批判します。そこには、まず、年配者による若者に対する優位を保とうとする動機が見てとれます。過去の経験は若者には知り得ないし、体験することもできないからです。また、昔を幸せだったと思いこみ、現にある不安からの逃避とも考えられます。あるいは、アイデンティティの連続性の確認の欲求とも思えます。今ここにいる私はさまざまな体験の寄せ集めです。それを意味あるものと信じるために、これまで構築してきた経験を美化するのです。以上のように、「昔はよかった」には根拠がありません。しかし、その発言が社会の変化から発せられていることは確かですし、それを見るべきです。昔を懐かしみ、今の子どもたちを批判するなど生産性がない態度なのです。
昔に触れなくても、三つの低下を根拠に、今の子どもたちだけを糾弾するのは真に滑稽です。と言うのも、子どもの変化は社会の変容と連動しているからです。その社会をつくり上げたのは他ならぬ大人です。子どもではありません。
実際、「規範意識の低下」・「自尊感情の低下」・「人間関係力の低下」は最近の大人にも少なからず見られます。ワイドショーで扱われる事件や変人だけではありません。公人と呼ばれる人たちにも、石原慎太郎東京都知事のように、自尊感情が極端に縮小し、自尊心が極端に肥大したケースが多々思い当たります。しかも、そうした人物をもてはやす向きさえあります。
ここで鍵になるのが自尊感情です。自尊感情が強ければ、規範意識も、人間関係力も高くなります。規範意識の低さに気をとられて、厳しくしつければいいという考えは本質を見ていない浅慮にすぎません。自尊感情が弱いと、自分は力を持っていないと生き難さを覚えます。その反動としてルサンチマンを抱き、あるがままを認めません。自分がこんな形でしか生きられないのなら、世界なんて滅びてしまえと攻撃衝動へと駆り立てられるのです。これでは規範意識も人間関係力も高まりません。また、自尊感情が弱く、自尊心が強い人に限って、他者を認める気がありませんから、特定の道徳的価値の強制を叫ぶ傾向があります。自分の不遇や不満を世界の破壊や破滅へとすり替える反動的な力を克服するために、自尊感情の育成が重要なのです。
言うまでもなく、あるがままの是認は現実への働きかけを放棄することではありません。自分の可能性を熟慮し、全力を尽くした上で、現われ出る現在をあるがままに肯定することです。精一杯力を出した意欲や過程に意義を見出す認識とも言い換えられるでしょう。
問題行動への対処として学校現場でしばしば「心の教育」が行われます。しかし、林教授によれば、それでは不十分です。この方法論はサイコエデュケーションのエクササイズを利用した内省の道徳教育です。人間関係を取り上げても、最終的には個人の内面へとその経験を差し向ける組み立てになっているからです。
そもそも、日本の道徳教育は、学習指導要領で道徳的価値を教えこむことが原則とされています。指導を通じた道徳的価値の内面化を教育的成果とするわけです。自尊感情の育成には子どもの主体性を最高度に尊重することが必要ですが、それが組み入れられていません。例えば、我慢は、自分が認められていると意識されて、初めて自主的にできるものです。現行の方針では、自分を抑えることを十分に育てられません。むしろ、逆効果をもたらしかねません。「心の教育」にしても、こうした従来の指導方法との妥協の産物なのです。
道徳的価値の教えこみも確かに大切です。教えこみも「インドクトリネーション」と「インカルケーション」に分けられます。前者は教える側にとって都合のいいことだけを子どもに刷りこもうとすることです。一方、後者は民主的な観点から望ましいとされる価値を子どもの主体性を配慮して教えることです。両者の内、インカルケーションが必要なことは明らかです。
けれども、教えこみだけに偏重していては今の課題に応えられません。価値の多様化・相対化の現代における規範意識を高めるのであれば、自尊感情の育成に本腰を上げる必要があります。
それには、過程を重視したオープン・エンドな議論型の道徳授業が適しています。プロセスは参加者の間で共有することができますから、こうした方法論は三つの低下に有効なのです。モラル・ジレンマやモラル・スキル、価値明確化、構成的グループエンカウンターなどが挙げられます。
この中でモラル・ジレンマはマイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室』で日本でもすっかりおなじみになっています。これは、同じくハーバードで道徳教育と発達心理学の研究者だった故ローレンス・コールバーグ教授の考案した授業スタイルです。資料さえしっかりできていれば授業が盛り上がることは日本の道徳教育の専門家にも知られていましたが、学習指導要領の方針と合わないため、手直しされて、試しに採用されている程度です。しかし、あの授業をテレビで見た人たちには導入できないのが不合理にさえ思えているでしょう。
道徳教育の改正と言うと、首長を含めて保守的な政治家はインドクトリネーションの強化を主張しますが、それは彼らが自尊感情の脆弱な人であることを吐露しているのです。一方、林教授は現代における道徳教育の目標を「やさしさ」に見出しています。これは価値観の違う他者をやさしい態度で受け入れることです。権力関係のない寛容さとも言い換えられます。それには、自尊感情を育むように議論型の道徳授業を大枠にして、その内部に教えこみを組み入れることを提案しています。その際、学習指導要領を改めることが求められます。
おそらく「やさしさ」が必要なのは子どもたちだけではないでしょう。三つの低下をあちらこちらで目の当たりにします。自尊感情を強め、自尊心を弱めるための熟議が日本の大人には必要なのです。「これは『正義』についてのコースです。こんな話から始めましょう(This is a course about Justice and we begin with a story)」。
〈了〉
参照文献
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2008年