批評の世紀、あるいは諷刺の黄金時代(6)(2006)
6 近代以降の批評、あるいはハッチポッチ・クリティシズムに向けて
ところが、19世紀に突入すると、事態は一変する。近代は神に有罪判決を下し、処刑してしまう。神は死ぬ。
森毅は、『数学の歴史』において、カール・フリードリヒ・ガウスを用いて、18世紀と19世紀の違いを次のように述べている。
「応用数学者」であることが「純粋数学者」であることでもあり、「物理学者」であることが「数学者」であることでもあるという意味で、ガウスは最後の十八世紀数学者であった。そして同時に、「純粋数学」に自立した意味をあたえ、得られた事実を一つの理論体系の中に眺めざるをえないという意味で、ガウスこそ最初の十九世紀数学者であった。
詩人にして劇作家であり、なおかつ翻訳家にして批評家であるようなとらえどころのないユーティリティ・ライターは19世紀には、事実上、姿を消す。何かある分野を専門として、必要に迫られて、慎ましく他に触れるにとどまる。
19世紀、神が死んだことにより、学問は根拠を超越性に求められない。自身で根拠付けなくてはならなくなる。諸領域において、細分化・専門化が進む。体系の世紀のその名の通り、それぞれの部門は自立し、体系化していくと同時に、おおらかさは消え、縄張りを守ることが暗黙のルールとなる。
神の死を迎えると、身分や階級が「国民」へと集約されたように、散文ジャンルは「小説(Novel)」に標準化される。小説、より正確には「近代小説(Modern Novel)」は体系の文学と呼べよう。それ以前に存在していなかったにもかかわらず、小説は文学の主権が自分たちにあると主張する。とは言うものの、小説は自ら根拠付けなければならず、批評はその代理人として社会に訴えなければならなくなる。批評家は職業として確立したが、その代償は大きい。
海野弘は、『〈モダン・アート〉とはなにか』において、近代芸術への批評の役割について次のように述べている。
階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。
このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。
芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。
これは芸術だけに起きた変容ではない。神の死において、批評は新たな理論に立脚する小説のスポークスマンと貶められてしまう。この小説が何を意味するのかを読者に解説しなければならない。それを拒否する批評家も登場するが、彼らは自己を語ることに専心する。その結果、批評家には極めて狭い専門的な知識や過剰な自意識だけが必須となり、百科全書的な博識は求められなくなる。俳優のセンスも批評家の条件から外される。
20世紀、神は死んだかと思っていたら、延命装置につながれ、普遍的な意味において、生きているとも死んでいるとも言い難い状況になっていたことが発覚する。近代科学の進歩は著しい。いずれ神のDNAを解読し、そのクローンを誕生させるに違いない。神の死は決定不能になる。
方法の世紀である20世紀、近代小説に代わって、方法の文学とも呼ぶべき「現代小説(Contemporary Novel)」が主流となるが、それは「メロドラマ(Melodrama)」である。国民に代わってエスニックが噴出したように、SFやファンタジー、ミステリー、サスペンス、ホラーなどのジャンルの復活を意味する。しかし、批評は依然として小説の時代と同様の地位に甘んじている。官僚主義に浸かりきった小役人か悩み多き文学青年、狭量な自惚れ屋が批評を発表しているという惨憺たる有様である。
こうしたたるんだ批評家の中には、対象の固有性をろくに書き分けられない小説家を批判するどころか、おめでたいことに、賞賛しさえする者までいる。批評家は、書く間に、ロバート・デュヴァルにならなければならない。
20世紀後半、非線形への関心の高まりから学際的研究が本格化する。また、ネットの発達は爆発的な情報を世界規模で体積・拡散させ、E文芸共和国をもたらしている。もはや「ここだけの話だけど(It is between you and me)」を文字通りに信じる者などいない。それは従来の批評ではなく、諷刺的・百科全書的批評の再認識を促している。”True wit is nature to advantage dressed, what oft was thought, but ne’er so well expressed”(Alexander Pope “An Essay on Criticism”).
けれども、情報の氾濫の中、既存の批評家がそれに対処しきれないでいるため、ブログやSNSなど感じた印象を思いつくままに記すのがレビューとして受容されている。メニッポス的諷刺の時代が到来したのであり、批評はメニッポス的諷刺を内包していなければならない。高名なるマータイナス・スクリブレラス博士は、聡明なる頭脳と豊富な学識による熟慮の上で、それを憂いつつ、こう断言するに違いない。「現代において最も必要とされているのは、『ごった煮批評』、すなわちわれわれの言うところの『ハッチポッチ・クリティシズム』にほかならない」。
A little learning is a dangerous thing;
Drink deep, or taste not the Perrian spring.
(Alexander Pope “An Essay on Criticism”)
〈了〉
参照文献
海野弘他、『現代美術』、新曜社、1988年
江川温、『新訂ヨーロッパの歴史』、放送大学教育振興会、2005年
福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、2006年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年
『世界の文学』3~7・59、朝日新聞社、1999年