15歳からの10年間、を振り返る。
誕生日を迎え、25歳になった。(ありがとう、ありがとう)
四半世紀を生き延びた。
誕生日の今日、私が25歳に至るまでの、やや怒涛の10年間を振り返っていこうと思う。
敗北と劣等感、輝けなかった15歳
高校を入学わずか2ヶ月で辞め、引きこもりとなった。十分な標準体重なのに顔はこけて、灰色だった。友達はおらず、一緒に住む母だけが話し相手。
生きがいはツイッターの世界だけで、私はそこに二次創作のイラストを毎日のように投稿していた。ツイッターでのいいね・リツイート、リプライが唯一の喜びだった。
同年代かと思われるユーザーのツイートから充実した私生活を感じた時は、劣等感で心臓を握りつぶされたような感覚だった。
そして高1の後期から通信制高校に転入する。
(転入先は、開志学園高等学校↓)
環境は変われど、私に気軽に遊べるような友達はできず、灰色の日々が続く。
しかし、希望制の英検対策クラスで素敵な先輩と出会えた事は、今も大切な思い出である。
その頃からだろうか、私は年上の人たちとの縁を感じるようになる。
「あたい、先輩受けいいんじゃね?」
といった感じである。
アニメのような青春を静かに渇望する日々はまだまだ続いた。
青春を実現した17歳
高校3年生になると、友達ができた。(拍手)
その頃の私は友達と遊ぶ日々がとにかく楽しかった。受験勉強も何もかも忘れて(かなり駄目)、引きこもり時代で空いた心の穴を必死で埋めるように、放課後ライフを謳歌した。
一夏で海に3回行ったり、友達の家でお泊りをしたり、ライブハウスに行ったり。文化祭準備のあとは23時くらいまで駅前で遊んだこともあった。
いっちょまえにスクールラブなんかもした。
進路が定まらない!
通信制高校に転入したことで劣等感をいだいていたので、高1の時から大学受験は意識していた。
海外の文化と英語が好きで、かなり浅かったが紛争地域への関心もあった。
社会の動きとか、世界史とか、「網羅するには多大な時間と労力がかかる」ような、広くて大きなものに興味を持っていることに、ふんわりと自覚したのがその頃だったと思う。(ちなみにその「ふんわりした自覚」は大学4年頃まで続く。)
国際系の学科、そして奨学金の種類が豊富な県内外の大学に絞って調べていたが、意志が弱い私は一人果敢に受験勉強ができなかった。
母曰く私は幼少期から飽き性で、モチベーションがとにかく持続しない。
数学に関しては、理解するまでにとんでもなく時間がかかる。そもそも私は算数の時点でコケている。
好きな英語以外は、全日制高校の同級生の学習進度にすら追いつけなかった。
にもかかわらず、「手に職」にも憧れて、言語聴覚士、看護師といった医療の分野にも興味を持つ。
幸運にも医療大学の校長推薦を貰ったのだが、「私に医療の仕事なんて無理だ!」と途中で投げ出し、最終的には語学・観光系の専門学校に入学が決まる。(なんでやねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん)
しかし、入学を控えた高3の3月、私は突然
「違う、やっぱり私は学びたいことがある。時間をかけて成長したい」
と気づき、語学観光系の専門学校の入学を辞退。
そんな紆余曲折を経て、実家から通える距離の「ボーダーフリー大学」の国際文化学科に入学する。↓
「自己実現のスタート地点」へ辿り着く
大学入学してすぐに、アルバイトを始めた。
(こちらのお店で↓)
自分で稼いだお金で着たい服を買ったし、食べたいものを食べたし、
会いたい人に会ったし、行きたいところに行った。
大学では、もともと引っ込み思案な私にしては色んな人と広く交流できたんじゃないかなと思う。
「自分で選択した道」で出会った人たちとの交流は少し特別だった。
高校までは、気力がなさすぎて「誰かが選んでくれた道」を歩いている感覚だったが、大学に入ってからは「自分が作り出した道」を歩き始める(とはいっても、悠々自適に実家暮らしだった)。
同級生に比べたら計画性も責任感もなかったが、私なりに遠回りしながら進んでいたと思う。
大学1年目は、まだ高校生活後半のような「青春を取り返す活動・遊び」に重きをおいていたが、やるべきことはしっかり並行していた、といった感じだっただろうか。
余談だが、この時のアルバイト先の建物の2階がスタッフのバックヤード兼デザイン事務所であり、そこのデザイナーさんに「デザイナーになるためには」などを相談していた。
自堕落の先の大きな出会い
大学2年に上がった。大学生活に慣れ、やや自堕落になった頃、イベントの企画と出会う。
進級直後、勢いだけで学内でプレゼンイベントを企画した。優秀な友人と親身な先生方のご協力があり、無事成功。
それ以降「企画する」「何かを作り出す」「誰かと作る」などに興味を持ち始めた。
しかし、なぜ企画に興味を持ったのか、何を成し遂げたいのかを突き詰めることはなかった。
目的がない企画をすることは、関わってくれる人への失礼にもなると思うのだが、当時の私は気が付かなかったのである。
関東の外語大に進学し独学でプログラミングを学び始めた兄に刺激を受け、ITやクリエイティブ業界に興味を持つようになったのもこの頃だ。
もともとイラストや漫画を描くこと、文章を書くこと、図や模様を描くことが好きだったので、Illustrator、InDesign、Photoshopを独学で勉強し始めた。「手に職」への憧れが、再び私に訪れた。そんな時だった。
1年の冬に参加した、とある合宿で出会った先輩に、面白いインターンシップ・プログラムを紹介してもらう。
「山村で他大学の学生と1ヶ月ほど共同生活をしながら、山の暮らしを知り、地域の人と関わる。」
〈田舎でインターン〉
その言葉の響きに、私はきらきらとした感情を抱いた。
ちょうどその時はプライベートなことでメンタルダウンしていたし、
「ダメダメな私から脱皮して成長するチャンスだ!」と私は意気込み、インターンシッププログラムに参加した。
インターンの一ヶ月間で、私の心にいろんな変化が訪れる。
「私もデザインを作ってみたい」
「私も解像度の高い言語化ができるようになりたい」
一言で言い換えると「人間力」や「仕事力」だろうか。
この3つを習得するために、19歳の私は奔走(その9割迷走)し始める。
その後、選択科目では、フィールドワークが主な授業を多く取った。
また、小さな大学だったので、学内外のイベント告知のフライヤーや張り紙のデザインを無償でやらせてくれと周りに頼み、拙いスキルで作って、使ってもらった。
「言語化修行」については、空っぽ頭の私には一朝一夕で習得できる技ではなく、何年もかかっている。25歳の現在も進行形である。
大学2年の冬、印刷会社でDTPのアルバイトをした時に、たまたま新卒採用担当の方とお話させていただく時間をいただいた。
その時、採用担当のおっちゃんに言われたことはこうだった。
「自分の言葉で話すことが大事だよね」
まるで全身の血管に「ショック!」という文字がものすごい勢いで逆流するような感覚だった。簡単に見透かされたのだ。
私が話した好きなこと、やっていることの中身がスッカスカで、しかも人の受け売りのような言葉の羅列に、すぐ気がついたんだろう。恥ずかしかった。
こんなんで私は社会に通用するのか?スキルも知識もないし人間力もない!
と、私は急速に「手に職」を習得することへの焦りを抱いた。
2年の冬、大学を辞めてデザインの専門学校に入学し直すことを検討した。が、なんやかんやで大学で頑張ると再決意した。(なんやねん)
学生カフェ運営の苦悩
2年次から応募していた学生カフェへの参加、念願かなって3年の春から仲間入りを果たすが、当時の自分を思い返せば非常に恥ずかしい。
まず、学生が運営するカフェと謳っているにもかかわらず、学生が行う活動は表のごく一部。学生主体と言いながらも、主体ではない。集まる学生の熱量や意識の差が激しく、まとまらない。何より、学生が地域への営業活動を行わない。学生から地域の人や外部の人への働きかけをしなかったのだ。ああ恥ずかしい。
今になってようやく、自分がどんな課題に直面していたかに気づく。学生の頃は「何がわからないのかがわかない状態」で、何が必要なのか、考えても相談しても話を聞いても全く「?」なのだ。その学生カフェは約1年後に閉業となった。
学生カフェでの未熟で恥ずかしい不毛な経験は、社会に出てからのキーポイントとなる。
就活がやって来る
学生カフェで楽しく活動しながら、大学3年の後期から就活を始める。
新潟県内の印刷会社をリサーチし、新潟市内の印刷会社DTP課の一日インターンに参加した。
2年の冬のバイト経験も踏まえて、DTPの仕事は「心ときめく」ことはなかったが、「いい具合」な感触だった。
この時期から、早く内定を貰って安心したいばかりに、自分の心に嘘を付き始める。ここに私の悪癖が全て詰まっていると言えるだろう。
やらかす、逃げる、大恥!
3年生の秋頃、2年の時に行った山村が地域おこし協力隊を募集していた。
私はすぐに飛びついた。低コストで実家から自立でき、県内だから母の了承も得やすい。集落には見知った人たちがいるから安心。早期内定を貰えれば4年生に慣れば悠々自適。そんな甘えた考え方で応募した。
さすがに自分で自分のことは騙しきれず、私のモヤモヤはレベル100を超えた。応募したものの、私は選考を辞退した。まるで高3の時と一緒だ。
怒涛の4年生の日々
4年に上がった。就活の意識は持ちつつも、私はなぜか就活をせず学生生活を満喫した。(ばかやろう!)
・学生フェの運営
・仕掛け絵本の制作(個人的な卒制的なもの)
・被災地現地ボランティア
・防災イベント運営(その事前学習のために初めて仲間たちと家島に行く)
4年生の活動範囲はざっとこんなところだ。しかし、就活を完全に忘れていたわけではない。
8月には一人でクリエイティブ業界の説明会に参加すべく、一人大阪へ行った。
(↓こちらの団体様のイベントでした)
なぜ大阪かというと、幼い頃から関西弁や関西の文化に憧れがあり、父方(韓国)のルーツにも興味があったからだ。
母の元から自立したいという気持ちは強く、東京では簡単に逃げ出してしまいそうな気がしたので、そういった意味では大阪はとてもよい位置にあった。
クリエイティブ業界の説明会だけでなく、大阪の夜間のデザイン専門学校の入学説明も受けに行くなど、私は完全にデザイナー志望として動いていた。が、私はその大阪就活トリップを経て、私はデザイナーとして働くことに適正がないと感じた。(なんてこったい!)
その理由は、ふんわりしたイメージだったが、
「お客さんの顔が直接見える仕事がしたい」
「直接手を差し伸べられるような仕事がいい」
という確固たる信念が私の心の中にあったからだ。
実際にデザイナーとして会社で働いていた夜間専門学校の職員さんの話からすると、私の思い描くデザインの仕事のイメージとはかけ離れていた。
そんなわけで4年生の夏に、私は更に人生の路頭に迷ってしまったのだ。
「家島行ってみれば?」
4年生の、12月に入った頃だろうか。特定非営利法人 大阪NPOセンターの元事務局長の恩師が私にこういった。
「家島行ったらええやん」
超適当である。でもその一言で家島に行った私もある意味適当である。
やりたい仕事がなければ叶えたいラフスタイルから決めたらいいのだ。私は家島に行って、ここに住みたい思った。しかし島の中にはほぼ介護の仕事しかない、とのことで、ありがたいことに島内の介護施設の見学をさせていただいた。
見学に行った時、私はその介護施設の雰囲気に魅了された。100歳近い人が光り輝く笑顔で趣味に打ち込んでいて、太陽のような存在感とエネルギーを持った華やかな女性が、赤ちゃんを背負いながら家族のようにお年寄りと接していた。その女性は施設の職員で、子どもが二人。施設の中を普通に歩いていて、私は感動した。そこは完全に「家」だった。ここに私が学ぶべき事があると直感で感じ取り、私はその施設で介護職員として働かせてもらえることになった。
私は家島で社会人デビューを果たした。
憧れの瀬戸内海!めまぐるしい1年目
島、職場にはとにかく優しい人がたくさんいる。愛情で溢れている。
慣れない早口な播州弁、家島弁は、まるで外国語のようだった。方言も違えば文化も気候も違う、私は家島に恋に落ちたようだった。
知り合いや友達がいなかったので寂しかったことは確かだが、職場が私の家のようでもあった。寂しい日は、出勤じゃないのにもかかわらず、泊まらせてもらったこともあった。会社の方に、本当に深い愛情で支えていただいた。
家島で働き、学び、泣き、笑った。だが、きっとたくさんの我慢をしていた。もともと我慢をしやすい性格ではいたが、もともとの性格がわがままなので、破裂しそうなほどに溜め込んだのが原因だろう。
1年が経とうとする時に、私は体調を崩した。母が迎えに来て、新潟に強制送還となり、休職をする。大変情けない話だが、私はこの時本当に人生を諦めかけてしまった。
この時は本当にしんどかったが、母に支えられ、私は生き延びた。母に生んでもらい、母に生き返らせてもらった。
この休職がなければ、私は一生母を理解しようと思わない、親離れができない子供のままだったと思う。
誰もわからない、自分と闘った2年目
鬱から脱却したい。社会に必要とされたい。
私は医師に「復帰するには少し早い」と言われたにもかかわらず、家島に戻り、復職させてもらった。しかし復職してすぐに胃腸の調子が悪くなり、復職から回復するまでの期間は、とてつもなく絶望的だった。
なぜ辛いのか。何が原因なのか。その時は本当にわからなかった。
自分も誰もわからないまま、通り過ぎる日々。
5月に休職から復帰し7月頃までは、新潟に帰るべきなのかと本気で悩んでいた。覚悟を決めて家島に来たはずだったのに、自分自身にショックを受けた。
正直この年は、過去最高に辛い一年だった。支えてくれた人のおかげもあったが、それにしてもこの年の私はよく頑張ったと思う。
この一年で最も素晴らしかったことは、夫と出会えたことだろう。
変化の渦の3年目
年明け早々新型コロナに罹る。風邪症状と高熱、しっかり発症し、精神的にもかなりやられた。
この後の3月に、夫(この時はまだボーイフレンド♡)に小豆島の早咲きの桜を見に連れてってもらった。あの時の解放感は一生忘れられないと思う。
思い出すたびに泣けてきそうな、優しく温かい日だった。
その次の4月、結婚に向けて動き出し、夏に入籍。なんとまあ、想定より早くも私はお嫁さんになった。
社会人3年目の11月、私は大変お世話になった介護の仕事を辞め、次のキャリアの準備へ踏み出した。
10年の総括
無事、四半世紀を生き延びた。特にここ3年は、何度か死のうと思うほど辛いときがあった。周囲では何人もの人が亡くなった。
家島は、美しい景色があり、優しく親切な人がいて、そして生死を身近で感じられる町だ。生きていることを直に実感させられる。
楽しいことも、辛いことも、それらを乗り越えることも、感動的な出会いも、全てこの町で経験した。人前でも人知れないとこでも泣いた。本当によく泣いた。泣きたくても泣けない日もあった。でも結局泣いていた。とにかく泣いた。(泣きすぎ)
非常に濃く、一皮むけた青春の10年間。歩みは遅くても確実に一歩前へ進んだ。
それらは私が歩んだ軌跡ではあるが、忘れてはならないのが、支えてくれた人たちへの感謝である。
ダメダメでメンタルが絹ごしのお豆腐のように弱かった私を、見守ってくれた人。厳しい言葉で導いてくれた人。笑わせてくれた人。
いつも周りの人に生かされていることを知って、そうやって生きていくことが一番大事なんだと、大学を卒業してすぐ家島で学べた私は世界一恵まれているんじゃないかと思うほどだ。
まだまだ道は続く、というか、いよいよといった感じ。25歳からは、実務をしっかり身につけたいところです。