タヒチの女 ー母の死についての覚書9
伯父夫妻たちと、病院の外で少し話すことになった。
駅の方へ歩いて適当なところを探すもどこも混雑していて、6人が一緒に座れそうな店はなさそうだった。道すがら私は久しぶりに会う従姉二人と話をした。
子供の頃から、何故私は伯父夫妻の子供に生まれなかったのかと伯父の家に行く度に絶望し、従姉に嫉妬した。伯母の優しさがかえって辛かった。
料理上手でしっかりしていて、いつもニコニコとしている伯母さん、寡黙な伯父さん、仲のいい姉妹......。
毎年正月には伯母の作った豪勢なおせち、堀こたつ、みんなで観る箱根駅伝......私が手に入れたくても入れられないもの全てがそこにあった。
我々一行は駅前にあるTデパートに入ることになり、私は人知れずクラクラしていた。
私が中学生の頃、妹の友達の母親がこの屋上から飛び降りて亡くなって新聞沙汰になったことがあった。なんでも介護疲れだったのとの噂だったが、その話を知った母が
「お母さんも、寛子ちゃんのお母さんみたくTデパートの屋上から飛び降りて死んじゃいたいわ~!」とウソ泣きしながら喚いていたのを思い出してしまったのだ。
ーーお母さん、もうじき死ぬ私の母よ、あなたがずっと不謹慎にも繰り返していた、この場所のすぐ近くで死ぬ気分はどう?
そもそもあなたはそんなことを口走ったことを覚えているのでしょうか......?
デパートの喫茶店。父はこういう場に慣れていないと見え、
「お前と同じのでいいや」と言ったのでアイスコーヒー4つと山ぶどうスカッシュが2つ運ばれてきた。
「久しぶりに来たわね、ここ。お爺ちゃんが入院した時以来かしら」伯母がクリームを入れながら言った。
祖父が、母の入院している病院で亡くなったのは私が小学4年生のときであった。
私は祖父と一度も会話をしたことはない。私の知る祖父は、伯父の家の縁側で一人外を見つめているだけの人だった。認知症だったことだけは知っている。祖父が徘徊したり生ごみを漁って食べた話などを母が楽しそうに近所の人に話していたからだ。
「お爺ちゃんが亡くなる一週間くらい前かしら。お爺ちゃんに『早くお家帰りましょうね』って声掛けたら、それまで何も言わなかったのに『あんたはよくやってくれたよ』って言ったの。それ聞いてああ、私は救われたなぁって思ったのよ」
従姉は2人ともうん、うんと小さく頷いていたが伯父も父も無言で表情を変えなかった。介護を気丈でしっかり者の伯母に任せきりでこの男たちは祖父、自分たちの父親の面倒をロクに見なかったのだろうなと察した。
最期まで舅を介護した伯母、介護疲れで自死したらしい妹の友達の母親、それを羨ましいと何度も口走った、じきに死ぬ我が母。3人の女の苦しみ、悲しみ。どれもこれも、到底別の誰かが背負えるものではない。家族でさえーー私の苦悩も闇も、私のものだ。
父と伯父夫妻の話に時々相槌を打ちながら、私は薄くなってしまった山ぶどうスカッシュのグラスの中を見つめながら妹が逃げたということについて考えていた。父が家を訪ねたら引っ越していたとのことだが、数年前に電話で父母が生活保護を申請する件について話した時
「家を買う余裕はあるのに、援助は出来ませんっていっても大丈夫なのかな」などと言っていたので家を購入したのは間違いないだろう。
これ以上の面倒に巻き込まれたくないので当然父には教えるつもりもなかったけれど。
伯父夫妻らを駅で見送り私と父は病院に向かった。
母がテレビが見たいと言っていたことを思い出し、販売機でテレビカードを
買おうとしたら
「なんだそれ、電話のカードか?俺まだ少し持ってるから、欲しいんならやるよ」と父が財布からテレカを取り出そうとした。
「テレビのカードだよ、お母さんが見たいって言ってたから」
「テレビ?あいつお前にもそんなこと言ったのか。目見えないのにテレビ見たい、テレビ見たいっていうからよ、見えないのに見たってしょうがねぇだろって言ってやったんだ。しょうがねぇから俺、ラジオわざわざ買って持って行ってやったんだ、あいつの部屋にあるの見たろ?あれ、お父さんが持って行ったんだぞ、俺だって優しいところあるだろ?」
本当に、何でこんな人が自分の父親なんだろう。
母は結婚前からもおそらくこうだったこの男のどこが良かったのだろうか。父は、母の美貌に惹かれて交際を決めたと言っていたけれど。
極貧の、劣悪な環境で育った母が人に縋って縋って最終的にたどり着いたのがこの男なのだろう。
子供の頃は、異常な言動を繰り返す母がとにかく恐ろしかった。
家庭内のみならず、近所でも名物扱いされるほどの変人で、度々問題を
起こしては父や私が頭を下げて回ったこともあった。そんな厄介で迷惑な
母が私は恥ずかしくてたまらなかったけれど、母があれほどまでにおかしな人間になったのは父にも問題があったからに違いない。
どうか、私の中で母を、最期までただの狂った怪物のままでいさせて下さい......。