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エッセイ Science of Life(人生を科学する)

なぜ思うようにいかないんだろう? 
随分悩みました。 
それもそのはず、気が付いてみれば、思うようにいかなくて当たり前、といった思いをしていたのですから。 
しかも、そんな無理な思いをしているなんて、これっぽっちも気づいていなかったのですから仕方がないですよね。 
(人は生まれながらにして、何も努力などしなくても、何でも完璧にできるようでなければならない。
努力をするようでは、お話にならない。
努力など、できない人間のすることだ。
だいたい努力をするということは、できないことを証明するようなものではないか。
そんなこと、恥ずかしくてできるか。)
こんな思いなのです・・・・・。
良くは分からないのですが、こんな思いをしていてはいけない!いけない!と思うあまりに、臭いものには蓋をしておこうといった感じで、心の奥底にしまい込んでいたからなのだと思われます。無意識のうちに・・・・・。
気づけないのです、自分の心なのに・・・・・表面に現れてこないのです・・・・・自覚できないのです。
だから、厄介なのです。
これを心癖と教えて頂けています。その、心の奥底にしまい込んだ心に、気づけるようになるためには信仰が必要でした。
水谷先生が教会長として八戸教会に赴任されておられたころ、祐祖の溝尻先生のご教話をカセットテープに録音なさっておられたんですねえ。それを玉野教会に赴任なされた時にご指導をいただくことができ、聞かせていただいたのです。
家庭信仰が大切とのことでした・・・・・朝詣り、夕詣りをきちんとすること、とのことです。
朝詣りでは、教典奏上・各種心得のお誓い・人様のお幸せと世界平和への祈りなどをさせて頂きます。そして、自分の心を感じて、それを大事にする味を覚えて欲しい。とのことなのです。何よりも大事にするんです。とのことです。そして、人様の心を感じて、それを大事にしながら、ものを言うたり、したりするんです、それが人間の本当の喜びだから、とのことでした。
それまで僕は、こんなことでは、いかん!こんな思いをしていては、いかん!いかん、いかん!とばかり思っていたことに気づくことができました。それで救われたのです。
こんな思いをしていては、いかん!いかん!と思うあまりに、心の奥底に追いやった思いには気づくことができないようです。
そういう心にも救いの手を差し伸べて、大事に扱ってこそ気づくこともできるんだとは思われませんか。そうなんです、清濁あわせのんで、醜い心にも、神仏にお詫びをしながら取り組んで、改める努力をしなければならないのです。
今にして反省してみれば、子供の頃から将来への展望など殆んどありませんでした。
映画を見て科学者に憧れるだけで、仕事で生計を立て、結婚して、子作り子育てをしようなどとは殆んど思ってはいません。スターやプレイボーイのようになって女遊びをしたい。いまだに、そういう思いが巣くっているのです。
いかがでしょうか。
じつに科学的だとは思われませんか・・・・・。
だから僕は、信仰が好きなのです。
ご先祖様のおかげ、両親のおかげで生まれながらの信仰者です。
小さい頃から教会へ参拝して、皆さんと触れ合うのが楽しみでした。
まだ信仰というより、遊ぶのが好きだったのです。
しかし勉強も、学校でするだけで、家では全くしませんでした。
だから、だんだん出来ない人間になってゆき、県立の高校の入試には落ちてしまい、教会へも足が遠のいてゆきました。
私立の高校も中退してしまいましたので、思うような仕事ができず、とうとう人生に行き詰まってしまったのです。
病気になってしまいました。
右目動眼神経麻痺です。
そして、やっと信仰に戻らせて頂くことができました。小さい頃からお世話になってきた教祖に申し訳ない思いでした。
でも、まだこの頃は、自分の心癖にも気づけていなかったので、宗教家になろうとは思ったもののなれるわけもなく、心癖を出しすぎて統合失調症まで発症してしまったのです。
なんせ、努力など何もしなくても、何でも完璧にできなければならないのですから、そんな偉そうなこと誰もできる人などいないでしょう。
でも、これからです。これはどこか自分が間違っているに違いない、なんとか信仰できるようになりたい、と思って、及ばずながらですが、生まれて初めて本気になって信仰して参りました。
式典のお手伝いや子供さんたちの育成、あしなが募金などなど、やることは一杯あったのです。
教祖は短歌を奨励なさっておられました。
短歌をやれば教えが早く分かる。真理が早く分かる、とのことなのです。
在りを在りとして、過不足のない真実表現。
授かった感動に丁度の、程よい表現をすればいいのだそうです。
そして、あたかも芸術家が作品作りに心血を注ぐように、日常のどんな些細な表現も疎かにしないよう、署名のできる表現を心がけることが大切なのだそうです。
宗教と科学は一致すると教えて頂いています。
信仰は科学的であり、芸術的でもあると思えるのです。
拙い歌ばかりですが、ひと息入れて頂ければと思います。

小寒の朝日を受けて聳えたる
  山の肌《はだえ》の影くきやかに

 ふと出会う母校の女子の懐かしき
   セイラー服に級友しのぶ

  山茶花の並木に花の満ち満ちて
   夕陽に染まる紅あでやかに

  女児二人目配せをして喜々として
  かけ出してゆく一目散に

のどかなる調べに鳴くも寒の朝
  とんびの声の寒々響く
    
    
冬晴れの朝の里わの山の上
  すじ雲なびく招くごとくに
    
    
初めての寝込みを襲う震度四
   われ幾たびも神に祈りぬ

     (阪神淡路大震災)

靴底の冷たさゆえに思い出す
  小学校の登校の時
    
    
寒き朝飛行機雲の珍しく
   十字を描く空広々と
      
      
朝の日は赤みを帯びて生垣に
   隣家の影をくっきり映す
      
      
芽の育つ道辺の梅の若枝に
  花白々と綻び初めぬ
    
    
山茶花の花の咲き満つ木々の下
  散りし二輪の紅鮮やかに
    
    
咲き盛る塀を隔てた八重の梅
  薄桃の色青空に映ゆ

 寒けれど今しも咲かん気配して
  桜の蕾枝々に満つ

差す傘の縁に溜まりて次々と
  光りて落ちる雨のしずくの
    
    
方形に剪定されし生け垣に
  萌ゆる若葉のほのぼの赤し
    
    
登場を客席からと控ふ間も
   なほ淑やかな女を演ず
      (劇団カッパ座着ぐるみ人形)
      
      
少女趣味やめるべしとふ事なれど
  咲き満つ桜やはり良きかな
    
    
夕方の光を受ける柿の木に

    若葉出揃うまだ小さくも

もう花も終わる桜の枝々に
  みずみずしくも若葉出揃う
    
    
陽光を受けて人らの行き来する
  萌黄の樟の並木の道を
    
    
青空に枝を伸ばせし花水木
  咲き満つ花の白さ際立つ

米寿にて未だに肩を揉みくるる
  母のおゆびの力強くも

囀りていたる子燕ゆくりなく
  今朝を巣立ちて母の寂しむ
    
    
糞《ふん》の世話しなくて済むと強がるも
  燕の巣立ち母寂しがる
    
    
清やかな小鳥の声の聞こえつつ
  今朝の裏山霧につつまる
    
    
朝霧につつまれている裏の山
  遠く近くに鶯の鳴く
    
    
巣立ちした子燕なのか巣の前を
 鳴き合いながら群れて飛び交う
  
  
雷の遠く聞こえて降り出すは
 どうやら梅雨の明ける雨らし
  
  
残照の山の近くに見えている
  薄紅色に染まりし雲の
    
    
真白なるくちなしの花葉の陰に
 見え隠れしてここにも一つ
  
  
陽の強くもう夏なるか山を埋め
  蝉ぜみの声湧き始めたり
    
    
隧道《すいどう》のそばに繁りて蝉の鳴く
 木立の緑したたるごとし
  
  
蝉の声聞きつつ仰ぐ栃の木の
 上枝《ほつえ》を透かす木洩れ日まぶし
  
  
栃の木に鳴くを聞きつつ佇める
  我が身にしみる夏蝉の声
    
    
川中の小さな段を落ち続く
  清き流れの滑らかなこと
    
    
穏やかに浅く流るる川の面
 ほとりの木々や空の映りて

いかがでしたでしょうか。
少しはお楽しみ頂けましたでしょうか。
何らかのお役に立てれば幸いです。
また別の作品でお会いできますことを楽しみにしております。

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