エネルギーの源泉はどこからきて、どこへと行くのか
はじめてコンテンポラリーダンスというものを体験してきた。
" 現代的な" (=contemporary)だなんて、高校生の頃洋楽ロックに心を震わせて、オルタナティブロック(alternative = " 代替えの" )という言葉を知ったときくらい、曖昧な表現だなぁという気持ちになっている。
それは一つのジャンルとカウントしてしまって良いのだろうか...という疑問はさておき、その過去の縛りから解き放たれようとする " 現代的な " 踊りを学ぶことは、新しい身体感覚へのアップデートに自身を導いてくれるかもしれない。
身体を動かすときに私たちは何気なくその行為をおこなっている。
手を動かしたり、足を動かしたり。
その一つ一つの動作は独立しているかのように感じ、脳から送られる電気信号によって、自分の意思によって命令を下しているような感覚を持っている。
しかし、踊りを踊っているとき...いや普段から歌ったり絵を描いたり、表現をしているときにも同じなのだけど、『動かそう』という意志というものをとても野暮に感じることがある。
それはどこか胡散臭く、か細いものであり、自身の頭で意図をしているにも関わらず、その行為はまったくもって空虚なものに感じ、自分のものでははいようにも感じる。
はたまた表現をしていて『今はいいぞ』と感じる瞬間は、私という意志とはどこか離れたところにその原動力となる源泉があり、その源泉の流れによって『ついつい動かされてしまっている』という感覚を得ることがしばしばある。
この感覚はとても心地よく、頭は空っぽになり、無と有が同時に存在しているかのような感覚を持つことができる。
この感覚を『繋がっている』という言葉に置き換える人もいるだろうけれど、確かにこと状態は『自分以外の何か』とのコネクト経路を無数に広げて、その接続を増やすことで自分の命を他者に委ねる代わりに、『一緒に生きること』をしてくれているようなものなのかもしれない。
私たちはついつい日常生活の中で、一人で立とうとしてしまう。
自立という言葉があるように、その言葉を見たどおりの印象に翻弄されて、自分の力で立つことを善しとしてしまう文化が根付いてしまっている。
それが現代社会において、どこくらい必要なものであり、次の時代にどのくらい踏襲するべきものなのかはわからないけれど、他者からの源泉に頼ることはさほど悪いことではないのだろうと思う。
エネルギーの源泉はどこからきて、どこへと行くのか。
" 現代的な " 体験はそう言ったことを考える機会を与えてくれて、それはしばらくの間自分の原動力として働いてくれるのだろうととても感じている。