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また好きなものが増えてしまった…『あとがき』
興奮が冷めやまぬうちに書きたい。
映画館から新宿駅までの歩く道、そして山手線の電車の中までも、鼓動は速く、息を切らしながら過ごした。
普段歩く時や電車に乗っている時は、音楽かラジオを聴く。
でも今日のあの時間だけは、余計な雑音にしかならないと思った。記憶を薄れさせたくなくて、無音でひたすら自分の頭と心の中で時間を過ごした。
早く、形にしたい。言葉にしたい。
色褪せ、消えゆき、既存のフレーズに取って代わる前に。
友達か、姉に電話をしようと思った。だけど誰かに言葉で伝えるという作業でさえも、この鮮明な記憶を薄れさせてしまうのでなないだろうか。
どうしたら、この感情を残せるのか。
そんな風に感じる映画に出会ったのは、いつぶりだろうか。
映画『あとがき』
下北沢の安アパートで俳優を志す春太(猪往大)と、吃音を持ちながらアーティストを志し春太のアパートに居候するレオ(遠藤史也)。下北沢で出会い、共に夢を追った二人の実話を描いた映画『あとがき』(監督:玉木慧)。
下北沢を舞台に人生を駆け抜けた二人の若者の軌跡ー
染井春太は居酒屋でアルバイトをしながら役者を目指しているが、来る仕事はエキストラばかり。ある日、路上で一人芝居をしている途中に出会ったアニキと東京・下北沢にあるバーを訪れる。そこで吃音のアーティスト、レオと出会う。 レオはアメリカから帰ってきたばかりで家が無く、気付けば春太の家に住み着くようになる。目指すものは違うが、お互い夢を追う者として気付けばかけがえのない存在となっていく。そして2 人はある約束を交わし、お互い約束を果たす為に日々努力する。しかし次第に春太を取り巻く環境に変化が訪れ、春太の夢に対する気持ちも揺らいでいく、、、いつまでも変わらないと思っていた。偶然出会った若者2人の出会いからそれぞれの人生の選択を描いた8年間を描く。
一日限定で再演するとのことだった。インスタの広告でみて、なんとなく気になっていた。
なんせ東京に来たからにはいろんな作品に触れる機会をたくさん作りたい、という一つの達成目標のようなものもあった。
これに関しては後で監督から直々にその意図を聞くことになるのだが、予告を見る限りは、いたって普通、というかよくありそうな夢追い物語、という印象も少なからず受けた。
私自身が夢や目標に向かってがむしゃらに頑張るというエネルギーが欠乏しているので、摂取したいと思ったのかもしれない。
当日券を買うための家を出るギリギリの時間まで、決断できなかった。昨日は遊んだしそろそろ真面目に勉強しないと…という思いもあり、一旦は映画のことを忘れようとした。
「どこにでもある物語かもしれないし、限定っていう言葉にやられてるかもな。」
でも、諦められなかった。
13時すぎに問い合わせをしてチケットの取置きをしてもらった。誰か一緒に行くかな、と思って心当たりのある友人に聞いてみたが、バイト中だったみたいだ。案の定聞くのが遅すぎた。
結局一人で行くことになり、向かう電車の中では映画があまり面白くなかった場合に備えた自分への言い訳を考えていた。
ところが。
そんな不安は杞憂だった。
この映画は予告から受け取るメッセージ以上のものを持っていた。
夢を追うこと
最初に言っておきたい。
私の言語化能力の限界をひしひしと感じる。
この作品の素晴らしさを半減してしまっていたらそれは本当に申し訳ない。
※少しネタバレを含む可能性があります。
個人的には、春太の人間味のある感情の機微が、この映画の非常に魅力的なポイントだと思った。
気がつけば、私は春太の視点で物語を見ていた。
夢を追いたい。
けど純粋にはもう追えない。
純粋にバンドマンの夢を追うレオに対しての憧れ。
これまで努力しても報われなかった傷つき。傷ついた心からくる、純粋な夢追い人への攻撃。
そうする自分が嫌になる。そんな自分と自分の選択を守るために、純粋に夢を追う人を軽蔑し、新たな選択を取ろうとする。
「自分は傷付いてはいない」「夢がなくても平気だ」
でも心のどこかでそれを求めてる。憧れている。
そんな葛藤を抱えながら新たな道を選択する。
どこかで、夢を純粋に追っていた頃の自分を探し求めている。しかし戻るのが怖い。
だから、忘れたふりをする。
それは、自分の選択した道にまだ自信が持てていないからだ。
夢を抱き、それに向かって、足掻いていた自分が、好きだったからだ。
そしてその恐れを抱かず、今も夢に向かうレオが羨ましく、憎い。
春太は、常に保身をしているようにみえた。
そして私もまた、そんな春太の姿に重ね合わせるところがあった。
私が今身を置いている世界は、決められた枠内での基準達成が成功の鍵とされている。何が成功かは議論の余地があるが、一般的な成功としておく。
学歴があり、明確な辿るべき道筋もあり、それに則って、少しのクリエイティビティがあれば、ある程度の成功はえられる世界なのではないか。楽観的すぎるかもしれないが、そんな風に思っている。もちろん、色々な困難はあるだろうけど。
学術はとても組織的な世界だと思う。
それに対して、狭い意味でのアーティスト活動、俳優やミュージシャンで名を売り「成功」するには、他人の美の基準に添わなければならない。そしてそれは常に変化し、揺らぎやすく、脆弱である。
決められた基準の範疇では、面白くない、陳腐だと言われる。奇抜すぎると、誰にも理解されないまま終わってしまうこともある。ゴッホのように。
届けるのは個々人だが、最終的には「大衆」を相手にしなければならない。
多くの人、または有名で権威のある人が良いと言ったものが、良いものだとされる。
「良いもの」になるには、権力が作り上げる既成事実が必要なのだ。
そんな評価の基準がない中で自分を見失わずに信念と感性を貫いて好きなものを作る、とは、どれほど強い精神力が必要なのだろうか。
そんなことを思った。
変わっていくもの、変わらないもの
この映画では、春太とレオの過ごした時間が「青春」として描かれている。
それはまるで過去のものであったかのように。
書き換えられた文章みたいに、変わってしまったものはその前の姿が思い出せないんだ
春太とレオが出会ったきっかけを作った「アニキ」が8年後に呟いた言葉。一言一句同じではないけど、こんなことを言っていたはず。
変わってしまったものと、変わらないもの。
その二つが対照的に描かれていた。
街も、風景も、人も。
人も環境も妥協して変わっていく
春太が住んでいた頃の下北沢の町並みや風景は、確かに「変わった」。
しかし、その中でも、今でも変わらないものもある。
そういう描写だった。
しかし、人は本当に変わるか変わらないか、の二択なのだろうか。
春太は、変わった、と周囲には評価される。
しかし、春太の内面には変わらないものもある。
そしてそれは分断されているのではなく、地続きなのだ。
変わらないものとして春太と対照的に描かれていたレオやアニキもまた、春太との出会いを通じて彼の中で何かが変化したのではないだろうか。
変わったように見えるもの、変わらないように見えるものは、あくまでその表面に過ぎない。
言葉を与えて、切り取って、区切ることは簡単だ。
春太の人生になぞらえば、
「俳優を目指していた頃」「俳優を諦めた瞬間」「別の道に方向転換した後の自分」など。
しかし一人の人生は、どこかで区切ることはできない、そう思う。
常に変化のプロセスの中にある。
あとがきを添えて
タイトルの「あとがき」は、
その過去の二人の青春、もう終わってしまった物語に春太が「あとがき」を添えた、という意味合いを含んでいる、という映画の中のメッセージだった。
その続きの「あとがき」は観た者自らが書いていくことができるのではないだろうか。
あの物語は、アーティストとして売れたい二人の若者の話。
しかしなぜだか全く別の世界を歩んでいる人の物語には思えなかった。
私には熱狂的な夢はない。なんとしてでも叶えたい、と魂が震える夢はない。
どこかで、無意識のうちに、別の道を選んだのかもしれない。
今も。
夢を見つけたとしても、どこかで環境と自分の現状とを見比べながら折り合いをつけて、逸らし続けているのかもしれない。
それはよく、「夢を諦めた」という言葉で片付けられてしまう。
この映画が伝えたかったのは、「諦める」ことの難しさだと思う。
夢は「諦める」か「叶える」かの二択ではない、その先の選択を肯定したい、そういうメッセージを伝えたい、
と、上演後迷う暇もなく買ったパンフレットに書かれてあった。
確かに、もともと抱いていた夢と別方向に向かうことは、悪いことではない。
その後の選択に満足できたらそれでいいのかもしれない。
しかし、過去の夢には、狂おしいほどに縋ってしまう。
夢や目標に向かっていた頃の自分は、とても眩しい。
だけど、今の自分と過去の自分の選択に満足したくて、葬りたくなる時もある。
そんな私たちに、
夢を「諦め」、色褪せたと感じてしまった人たちに、
苦しくも眩しかった過去を振り返り、これからの「あとがき」の可能性と希望を示してくれる、そんな映画だと思う。
この映画を見ながら、私たちは過去の自分と、今夢を追う人に寄り添う。
今夢に向かって自分と戦っている人は、どんな風にこの映画を観るのだろうか。ぜひ感想を聞いてみたい。
上演後の後悔と幸せ
映画が終わり、この作品を作った人たちに私は心から拍手を送りたかった。
しかし周りの目が気になってしまって、拍手はできず、浮立つ心を秘めながらエンドロールをぼーっと眺めるだけになってしまった。
後ろに監督と俳優の方々が立っていた。後悔した。拍手を送ればよかった。
上映後のトークショーが終わり、監督の玉木さんと主演の猪さん遠藤さん、プロデューサーの槇原さんとお話しする機会があった。
あの感動を与える作品を作った人たちが、目の前にいる。
演技や演出で感動したこと、心に残ったこと、恥ずかしいを通り越して伝えなければ、と思った。
映画の中で「演技をする」演技が上手すぎてそれが映画であることを忘れてしまったこと。
実際の性格とは真逆の人物、それも吃音をも憑依させた演技の凄さ。
形容詞が一つには収まらない、余白を残す映画の素晴らしさ。
とにかく、言葉にするのが難しいほど、感動したこと。
そして伝えた先に、作り手の意図を聞く。
既視感を感じる予告は、予告で多くを語らないようにするためだという意図があったことまで。
実際に作った方々と感想や撮影秘話を双方向に共有できるなんて、そんな喜びはない。
そんな機会を作りたかった、と監督は言った。
配信でいつでもどこでも映画を見られる時代に
このような生の感動を覚えられたことは、必ず人生の宝物になる。
この映画、たくさんの人に見てほしいけど、配信で公開されることに少しの寂しさも感じてしまう。
あの物語をみたあと、監督や俳優の方々を見ていると、
この人たちは数々の選択と傷付きを乗り越えて今ここにいて、今もまた選択の途中にいるのかもしれない、と感じた。
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書いた後に思ったのだが、なんかこの映画の魅力が伝わっていない気がする。
ほぼほぼ自己満足の感想文なので、お許しを。
だけどこの感動が、誰かに伝わっていたとすれば、とても嬉しい。
作り手の人にも届きますように、