十月は黄昏の銀河帝国 ③
3.月面ドライブ
白い大地と黒い空……
二つの色しかない世界を、遠藤空里は疾走していた。
月面車は〈虹の入江〉に広がる月塵の上を順調に進んで行く。
このバギーのような乗り物は、乗員を守る外装が無いので宇宙服を着たまま運転する必要があった。そもそもが空気のある惑星上で使うための運搬作業車なのだ。
だが、もうそんなことは気にならないくらい空里は運転に慣れてきていた。
「もう少し進路を右に取ってください。十五度くらいです」
助手席でナビゲートする少年が言った。
指示通りにハンドルを切ると、視界の隅に地平線上に浮かぶ地球が見えた。
故郷の地球は近くにあるように見えて、もはや遥か彼方の存在だった。何もなければ、あそこで教習所に通って免許を取って、アスファルトの高速道路をこんな風に飛ばしていたかもしれない。
だが、それはもうあり得ない未来だった。
そんな未来のことを考えていても仕方ない。
空里が生きるべき未来は、隣に座る少年に誓った時から永遠に変わったのだ。
銀河皇帝になります……
……と。
「運転が上手になりましたね」
少年……ネープは言った。
「教官の指導がいいから」
応えながら空里は自分にとってのネープというものが、一口では言えない存在であることを改めて思った。
教官……守護者……メタトルーパー……ボディガードと言った女もいた。
そして今は夫……配偶者でもある。
なんか極端だな。
彼との結婚を言い出したのは確かに自分だが、あの時は公家設立の要という〈法典〉の示した義務の押し付けに逆らう勢いで「えいや」と決めてしまったのだった。
勝手なものだが今、空里の中では何というかネープにもう少し手前の存在でいて欲しかったという気持ちが大きかった。
友達……ボーイフレンド……恋人……彼氏……
……彼氏のバイクにニケツでデート。
そんな夢を語っていた少女がいた。
すべてが変わったあの運命の夏の日、永遠に去ってしまった友達が。
ねえミマ、信じられる?
あれから二ヶ月しか経ってないのに、あたし結婚して旦那さんとドライブしてるんだよ。
月の上を。
月だよ!
首をめぐらして見上げた地球が涙ににじむ。
同じような星を幾万もその手中に収めたというのに、あのちっぽけな惑星だけが空里の心を支配していた。
何ひとつ持っていない、虚ろな抜け殻みたいな銀河皇帝……
……それが今の自分だった。
ハンドルを握る手に、別の手が重なった。
分厚い気密グローブ同士の触れ合いでも、温もりが伝わってくる気がする。
ネープは空里の悲しみを決して見逃さない。
そして、どんな言葉もその悲しみを消すことは出来ないことを知っていた。
だから彼はそういう時、いつもそっと触れてくれるのだ。
手に、肩に、時には頬にも……
それが、何があっても必ず自分はそばにいるというメッセージであり、約束の証だった。
それ以外、彼の態度や姿勢が結婚前と変わるところは何もない。
こんなプラトニックな夫婦っているかしら……?
「大丈夫よ」
そう言うと空里はちょっと無理に笑顔を作って見せた。
こういう時は必ずそうする。いつかそれに応えて、彼が笑顔を見せてくれることを期待して……
しかし、今回も空振りだった。
ま、いいわ。うれしいことはいつか起こると信じるのが大事。
今はやるべき仕事がある。
そういうふうに浮いて沈んでを繰り返して、何とかやっていくしかないのよ……
やるべき仕事は山ほどあった。
月の仮住まい……言わば皇帝の仮宮である〈カグヤ宮〉の整備もまだ終わっていない。
クアンタが帝位継承の環境を整えるために先行して銀河帝国へ戻ることになり、地球にいづらさを感じていた空里は月に仮住まいすることを決めた。
〈カグヤ宮〉は帝国軍との戦闘で航行不能となったゴンドロウワ艦隊の巡航宇宙艦を、月面上に擱座させてそのまま空里の住まいとしたものだった。
大きな観測窓を持つタワー型のサブブリッジが空里の居室となり、そこからは〈虹の入り江〉が一望でき、見上げれば地球を臨むことが出来た。低重力下での生活には慣れが必要だったが、あくまで仮宮で長くいる予定では無い。
クアンタから連絡が入ればここはすぐに引き払い、ゴンドロウワたちの艦隊を率いて帝国へ向かうことになる。
おそらくもう二度と地球圏に戻ることもないだろう……
ゴンドロウワ艦隊は現在、チーフ・ゴンドロウワのジューベーと共にほとんどが木星軌道にあった。
木星のすぐ側には星百合がある。
そのスターゲートを潜って、空里を狙う帝国からの刺客や軍勢が現れた時のために警戒網を敷いているのだ。
そして月で空里を護るのは猫型人シェンガの役目となった。
本来ならそれはネープの任務なのだが、シェンガは今の状況が本来のものではないと主張した。
「お前はアサトの夫なんだろう? だったら夫としてアサトを護れ。俺は皇帝夫妻とアサトの公家を護るお役目を引き受けてやるから」
ネープは眉をひそめ、空里は喜んでシェンガの進言を受け容れた。
シェンガは自ら近衛隊隊長という役に就き、月に残ったソルジャー・ゴンドロウワたちを指揮、編成。空里の警護だけでなく様々な仕事に役立てていた。
〈カグヤ宮〉周辺の感力場シールド発生装置の設置もその一つだった。
「そろそろポイントのようです」
ネープの指示で空里は月面車を停めた。
「ゴンタ、起きて」
空里の呼びかけに反応し後部の荷台から金属製の巨人、ソルジャー・ゴンドロウワが起き上がった。
空里は身近にいるソルジャーたちに名前を付けて指示をしていた。
チーフと違い、ソルジャーは名前を付けてもそれほど知能レベルは上がらなかった。だが愚直に命令を聞いてくれる彼らは、月での生活に欠かせない存在となっていた。
「シールド・ジェネレータを下ろして。同じように設置するのよ」
空里の命令で、ソルジャーは荷台から自分の身の丈に倍するアンテナ状の装置を下ろし、指示された場所に設置した。
動作の確認は空里が自分で行なった。
全てネープとゴンタに任せることも出来たが、君主としておさまりかえっていても落ち着かないので出来ることはやらせてもらっているのだった。
これでジュラ山脈の麓にある〈カグヤ宮〉は周囲に設置された六機のシールド発生装置によって、直径約五〇キロメートルの感力場シールドのドームに覆われることになる。高速、高エネルギーによる攻撃、たとえばミサイルや白色光弾による宇宙からの攻撃には万全の備えが出来たわけだ。
だが、襲撃者が地上部隊を展開し接近してきたら、感力場シールドにそれを防ぐ力はない。
そうなったら、シェンガとソルジャー・ゴンドロウワの近衛隊が頼みだ。
「とりあえず、これで安心ね」
空里の楽観的な言葉にネープは固い表情を見せた。
「どうでしょう……襲撃の間口は狭まりましたが、まだまだ油断は出来ません」
かつてネープは自分の姉とも言えるネープ三〇二を「心配性」と評したことがあったが、心配性は全てのネープのならいではないかと空里は思った。
「もし誰かがここへ攻めて来るとしたら、どんな形になると思う?」
「わかりません。予測だけなら出来ますが、恐らくそれを超えるような戦術を繰り出してくると考えた方がいいでしょう」
「ネープの予測を? そこまで怖いことになっちゃうの?」
バイザー越しに空里を見返すネープの目には戒めの色があった。
「相手はレディ・ユリイラです」
空里の脳裏に、斬宙剣を振り上げる仮面の貴婦人の姿が浮かんだ。
銀河帝国を陰から支配し、空里を仇敵と狙う亡き前皇帝の姉……宇宙の黄泉から帰って来たという謎多き女……
「そうよね……油断出来ないわよね」
自分が帝国へ戻ったら、再びあの恐るべき女傑と対決することになるのだろう。
いや、そこへ至る前に無慈悲な一撃をくわえてくるかもしれない。
この月に……
怖気だった空里が「引き上げましょうか」と言うと、通信機の緊急呼び出し音が鳴った。
「シェンガ?」
近衛隊長のミン・ガン戦士は今の会話を聞いていたような緊張感のある声で応えた。
「アサト、悪い知らせが二つある」
銀河皇帝は眉間に皺を寄せた。「いい知らせと悪い知らせがある」っていうセリフはよく聞くけど、それダメダメじゃん。
「高次元波通信網が封鎖された。ドロメック通信が繋がらない。ジューベーともクアンタの爺さんとも連絡不能だ」
ネープが割って入った。
「全帯域でだめなのか? ドロメックにチャンネル・スキャンをさせてみたか?」
「ああダメだ。こりゃアクシデントじゃねえ。間違いなく管制封鎖だな」
答えを聞きながら、ネープは空里に車に乗るよう身振りで指示した。
「私が運転します」
空里は助手席に滑り込みながらシェンガに尋ねた。
「もう一つの悪い知らせは?」
「何かが高速で月に接近中だ。サイズは小型の宇宙艦並みだが恐ろしいスピードだ」
空里とネープは顔を見合わせた。
正にさっきまでの心配が現実のものとなりつつあった。
つづく