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奈倉有里「文化の脱走兵」を読む

 この本は、2022年のウクライナ侵攻を受けて奈倉さんが書いた『クルミ世界の住人』というエッセイをきっかけとして始まった連載(月刊誌『群像』にて)をまとめたものである。
 『クルミ世界の住人』は、筆者が小学校の頃、遊びに行った同級生の家で、その子のお父さんがクルミを割っているシーンから始まる。
 おじさんは筆者に「クルミは好きか」と訊き、筆者がうなずくと「クルミが好きな人に悪い人はいない!」と大喜びしてクルミをご馳走してくれる。クルミを好きな人はみんな仲間なのだ。
 この感覚はよくわかる。私も本好きな人はみんな仲間のような気持ちになるから。そこには人種や国籍は関係なく、世界中のクルミ好きがみんな仲間だ。
 この感覚は、多かれ少なかれ誰もが持っているものなのではないだろうか。この感覚が国という行政単位のしがらみによって曇らないようにする、ということが大切なのだと著者は言う。
 ロシアのウクライナ侵攻後、いち速く反戦の声を上げたロシアの女性作家ウリツカヤが著者に語った「国や政府とは、その行政単位に暮らす人々や、その国にかかわる人の人権を守るためだけに存在する最低限の必要悪であるべき」という言葉の強さに私は驚き、それだけに一層その言葉は、私の心にも深く刻み込まれた。
 必要悪。
 愛国心という言葉があるが、愛国心を育むということを目指してはいけないと私は思う。国を愛そうが愛すまいが、個人の自由だ。愛されたかったら、愛されるような国になれ。そう思う。
 愛国心を利用して国のために命を掛けて戦わせる。そんなことが絶対にあってはならない。戦わない自由は断固として守られなければならない。
 この本のタイトルは、ロシアの詩人、セルゲイ・エセーニンの詩をヒントを得てつけられたという。

戦争は僕の心を喰いつくし
どこかの他人の利益のために
目の前にあった体を撃ち

それでわかったんだ、自分はおもちゃだと
僕は武器とかたく決別し
詩のなかでだけ戦うことにした

能無しと悪党どもが
戦争を「戦い抜け」「勝利まで」とけしかけて死にに行けと前線に追いやった

それでも僕は剣をとらなかった…
砲撃音と轟音のもとで
選んだのは別の勇気だ
僕は国でいちばんの脱走兵になった

 あのミヒャエル・エンデや俳優の三國連太郎も招集令状を拒否して逃亡したそうだ。けれども三國さんは、逃亡先から送った手紙を母親によって憲兵に差し出され、軍人として中国の前線に配属されてしまった。母親も、家族が村八分になるのを恐れ、涙を呑んで決断したのだという。
「母の人間としての感性を狂わせたのは、明治以来の軍国主義の政治や教育だったと思う。1人では逆らいきれない国家の暴力によってねじ曲げられてしまったのです」

 愛国心を持たない人を許さない同調圧力。
 でも、愛国心を持っているからこそ戦わない、という人だっているだろう。
 そんな想像すらできなくなってしまうのは、「クルミ世界の住人」のあの感覚を、国家という「必要悪」に麻痺させられてしまうからだ。

 著者は言う。戦争をするとき権力は、戦争の卑劣さや汚さや自分らの罪を、嘘だのでっちあげだのと叩いて忘却させる。そして、あたかも民主主義や人権意識のほうが戦争よりも愚かであるかのような風潮を作りだす。そして、仮想の敵のイメージを練りあげ、それを「ほんとうの」敵としてすりかえて仮想の敵だった相手に敵意を植えつけ、ほんとうの敵対関係を生みだすのだ、と。そうした上で、武力を増強していつでも戦える状況を整え、言論の自由を弾圧し、権力に異を唱える者をことごとく裏切り者やテロリストと認定し、祖国を守ることを呼びかけるのだ、と。
 私たちは、自分の国がそれをやっていないかどうか、きちんと見ている必要がある。私はよく見ているつもりだが、今の日本はそれをやっているように思えてならない。
 けれど著者は言う。

 大丈夫。人はこれまでもそうして強い悲しみを抱えながら、それゆえに少しでも個々の人々の権利を守ろうとしてきたし、その軌跡はたくさんの本に描かれている。ただ人間はあきれるほど忘れっぽく、目新しいことを言っていると思い込んでいる人間に限って過去の過ちを繰り返すというだけのことだ。けれどもそうして戦争がおこなわれるというなら、文学は何度でも考え直し、示してみせよう。それは憎しみの連鎖を止めるための、人類の大切な共有財産だ。戦争の本質的な悪を、身勝手な権力の構造を、そこから生まれる社会の不安や管理社会の息苦しさを、無念な市民の思いを、恐れずに語り続けよう。

奈倉有里『文化の脱走兵』P.75より

 そうだ。だからこそ私は、これからも文学を学び、書いていきたいと思う。


さあ、選挙です!私たちの意思表示をするチャンスですよ~。



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