中学生、私はカルト二世を自覚した。(2)洗脳なんて知らなかった。私は無敵だった。
これは妄想でもフィクションでもなく、私が抱くもうひとつのはなし。(1)~はマガジンにまとめてあります。
小学4年生、「おみたま」を身に付けるようになった私は正式な信者になった。
ここでいう”正式な”とは、教団(崇〇真〇)が一番大切な業としている
「神からの光をおみたまを持つものが神に(教祖に)変わって手をかざし、額の奥にある魂から体全体までを清める儀式」
を行うことができる状態になったことを指し、信者たちはこれを「お清め」と呼んでいる。
「お清め」ができるようになった私は無敵だった。
転んでけがをしても、風邪をひいても、「お清め」をすればよい方向に治ってゆくと ”まわりの” 大人たちはこぞっていうから。
「お清め」をすれば母も周りの大人たちも笑顔で「ありがとう」「楽になったわ」「なんだかあたたかいね」と言うから。
誰もその事象について、「なぜそう思うのか」「そんなの思い込みだ」「どうしてなにも誰もいわないのか」と言わず言わせず、平和な空間を沈黙で守っているような。
”そんな光があったなら、本当に世界からすべての悪しきものがなくなれば、この世は必ずいいものになる。自分はその先駆者たちの一人なのだ。”
と私は本気で信じていた。長子であり、学級委員などもするような子だったから、使命感が責任感と結びつくのに時間はいらなかった。
「私、休み時間に友達にお清め、してみようかな」
と母に本気で言った記憶があるほど、なかなかいい出来のカルト二世を全うしていたように思う。(結局することはなかったが)
宗教やそれに準ずるコミュニティは、どこも同じような空気を感じる瞬間が今でも必ずある。それを人は”洗脳”というのか。
どっぷりとその空気に浸かって染みついていたからこそ、安全だと思っていたかつての空気感と似たものを感じ取ると、”ここは/この人は危険だ” と思う指標に今はなっている。
「あの時の周りの大人たちと、この人は同じ目をしている。危険だ。飲まれるな。距離をおけ。繰り返すな。」と。