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大河「べらぼう」で「女のハダカ」を出した意義と、視聴者の幼稚化
大河ドラマ「べらぼう」が、良くも悪くも注目されている。
主人公・蔦屋重三郎は親も分からず、吉原の駿河屋に拾われて育てられた、生粋の吉原育ち。ということで、この物語は吉原遊郭とその周辺に生きる人たちをいかに活き活きと、そして厳しさを表現できるかが面白くなるか、ならないかのカギを握っていると思う。
第1回の放送後、X界隈で「3人の女のハダカが出てる」ことにざわついていたらしい。「NHKの大河がハダカを出していいのか」とか「子供と一緒に観てて気まずい」とか・・・。アホかと。なんでもかんでも文句ばっかり言って、それが自分の自由の首を絞めていることに気付いてないんだろう。こんな規制を入れられたら、日本古来の文化はことごとくなくなるぜ。
そもそもNHKが何も考えずに「女のハダカ」を出してるとでも思ってるんだろうか。制作者は「女のハダカ」を出すことで、リアルな当時の「吉原」「女郎の階級」「差別」「貧富」から目を背けない姿勢を貫いたと、評価こそすれ、文句を言う輩はもう「アホ」としか思えない。
当時の吉原には、銭で売られた子どもたちを女郎に仕立てていく仕組みが完成されていたし、そのおかげで生きていくことが出来ている子どももいたのは事実だ。それが幸せなのか不幸せなのかは全く別の問題ではあるが。
そもそも大河ドラマで蔦屋重三郎を主役にするというのはそういうことだしそこに「女のハダカ」がどうのこうの以前に、もっと人間模様の恐ろしさや軽薄さ、心ない行為ができる人間の恐ろしさについて語られるべきではないかとおもったりする。
何よりも嘆かわしいのは、僕が子供の頃は「女のハダカ」が出るドラマはたくさんあった。そして当時の子供の僕は、親がどんな顔して見ているのかを気にしたが、親たちはそんなシーンも含めていたって真面目にドラマを見ていたし、画面のハダカの奥にある「悲しみ」や「想い」のようなものを感じ取ろうとしていた。少なくとも「女のハダカを出すとはけしからん!」という目線でドラマを見ていなかったと思う。
そういう親の姿勢を見て、子供の僕は「女のハダカでいちいち顔を赤くしてはいけない」ということを覚えたりした気がする。つまるところ「女のハダカ」が放送に流れたとしても、受け手である視聴者が幼いが故に「子供と見られない」などと言いだすわけで、大人としてドラマの本質を見ていれば、子供の前で「女のハダカ」が出ていても何もアタフタしないはずだ。
むしろそんなことのためにドラマで「女のハダカ」を禁止されたら、芸術とか文化がどんどん息の詰まったものになってしまう。ドラマからタバコのシーンがなくなり、ハダカのシーンがなくなり、最後には政治批判のシーンがなくなってしまったら、ドラマなんて必要なくなってしまうだろう。
ドラマはフィクションというものの中で、人間の本質を衝くことに意味があり、その本質はノンフィクションであるべきだと思っている。「女のハダカ」も「麻薬売買」も「政治汚職」も「いじめ」も「刑事事件」も人間の本質の中にある事実であり、フィクションという領域だからこそ語れる文化だと思う。
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