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「”1万時間の法則”で一流になれる」はウソ。じゃあ、僕らはどこに練習を継続する意味を求めたらいい?
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1万時間の法則。
あなたも一度は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。
平たくいえば、
「特定の分野を1万時間練習すればだれでも一流になれるよ!」
という話です。
この論は2009年ごろ、マルコム・グラットウェルさんが広めたもので、そのキャッチーでポジティブなフレーズのためか、どこそこで使われるようになった模様。
しかし、いまでは「一万時間の法則はウソ」という見方が強くなってしまいました。
現在の科学は「『1万時間の法則』はかなり怪しい!」という見解。
1万時間の法則が否定されるようになった理由は、2014年に行われた研究。(*1)
プロの音楽家やチェスの名手などの専門家の、パフォーマンスレベルと練習量の関係について、メタ分析という方法でくわしく調べたところ、
「パフォーマンスレベルの高さに、練習量はあまり重要ではなかった」
という結果が出たそうです。
さらに、2019年のバイオリニストの技量と練習量の関係を調べた研究(*2)では、
「練習量の多さとパフォーマンスレベルの高さは、26%くらいしか関係しなかった」
という結果が出たうえに、
トップレベルの人はむしろ中堅クラスの人より練習量が少ない傾向にあったそうな。
つまりところ、
「練習量が多い人が超一流になれるわけではない」
ということ。
一流になるためには、おそらく練習以上に環境や遺伝といった個人の努力ではどうにもならないような影響が大きいってことなのかもしれません。
まぁたしかに、親族の子どもに
「1万時間100m走の練習をしたらウサインボルトより速くなれる?」
と聞かれたら、僕は安易に「うん、なれるよ!」とは言えないです。
「継続は力なり。だけど、その力が一流のものとなる保証はどこにもない。」
という現実を突きつけられ、僕は思わず唇を噛みまみた。
じゃあ、継続して練習すること自体が無意味なの?
「努力次第で一流になれる」という言葉は当てにできない。
だとすれば、僕らはこれから何のために継続した努力をすればいいんでしょうか。
一流になれなかった人、あるいは限界が見えてきた人はどうすればいい?
いままでの練習はすべてムダになってしまうの?
さまざまな不安がたまってしまいます。
でも、そこについては完全に絶望する話でもないようです。
上記の研究結果は、「練習が無意味だ」ということを指すもの意味ではありません。あくまでトップになるための条件が練習量ではないよ、という話。
”自分なりの成長”という意味であれば、練習はやはり必要不可欠なものであるということに変わりはないようです。
しかし、
一流になれなかったら、その時間は無駄になってしまうのではないか?
という気持ちになるのも自然な話。
では、僕らが練習に費やした時間を無意味なものにしないためには、一流になれない可能性を受け入れた上で練習を継続していくためには、どうすればいいのでしょうか。
継続することで価値を生み出すには?
練習を継続しても一流の”人”になるのはかなりむずかしい。でも、継続した練習が一流の”価値”に化けることはわりとある。そんなふうに僕は思います。
なぜなら、「継続していること自体に価値が生まれる」ということがあるからです。
僕の想像の範疇(はんちゅう)ではありますが、
・継続性そのものが価値につながるもの
・能力に対して結果の不確定要素が高いもの
あたりは、取り組んだ時間の長さが一流の価値を生み出しやすくするものだと言えるのではないでしょうか。
”継続している”という”事実”が価値になる例
「継続性そのものが価値になるパターンってどんなことよ?」
ということについてすこし例を挙げてみます。
わかりやすいものであれば、
「創業300年の老舗まんじゅう屋」
あたりでしょうか。
そこのお店のまんじゅうが「日本一うまいか?」と言われれば疑問だけど、
「”300年続いてる店の”まんじゅうだ!」ってことにたいして特別感を感じちゃいますよね。
ほかに身近な例として僕の卓球経験を挙げると、
「20年かけて全国大会初勝利した」
なんてのは、継続性による価値といえるかもしれません(一流とはほど遠いですが)。
ぶっちゃけ、例として取り上げるには恥ずかしいほど、成績自体はたいしたことないんですけどね。
全国大会で1回勝った人なんてのは、世の中たくさんいるし、20年もやってれば(肉体のピークは過ぎてしまうものの)それなりの回数チャンスをもらうことはできたわけですから。
もはや、「才能もないことを続けるような非効率な生き方をしてる」と捉えるべきなのかもしれません。
でも、その過程がかえって
・成績が出なくてもあきらめずに20年挑戦し続けた
・30歳という肉体のピークを過ぎたにもかかわらず自己ベストを更新した
という、ちょっとした付加価値になったようです。
そのおかげもあってか、コーチの仕事のお話をいただいたりするようになりました。ありがたい。
能力の高さと結果の大きさの間に不確定要素の多いものの例
芸術作品などは絶対的な正解が存在しないので、少なからず数打ちゃ当たるに近い部分はあるんじゃないでしょうか。
いま書いているこのnoteなんかもまさにそう。
いつどこで誰にヒットするか分かりません。一生日の目を見ることはないかもしれないし、どこかでびっくりするようなアクセスを集めるかもしれない(期待してないけど)。その確率は、やはり記事数があるほうが上がりますよね。
さきほどの僕の卓球経験の例も、数打ちゃ当たる方式といえば数打ちゃ当たる方式ですね。肉体的なリミットはあれど、やはり3年しかやってない人よりはチャンスの数が多いわけですから。
継続して練習しても一流のスキルを持てなかった人がスキルに価値を与える方法は?
「継続性が価値を持つ」ってこととは離れてしまいますが、練習で培った「そこそこのスキル」に価値を持たせることは可能だったりします。
たとえば、
・競争率が低いスキルを持つ
・複数のスキルが組み合わせる
・個人のスキルだけに頼らない(チームの一員として行う)ものを選ぶ
みたいな方法でしょうか。
またまた僕の例でほんとうに恐縮ですが、
「理学療法士の免許を持つ卓球コーチ」
なんかも、
・全国大会にギリギリ出られるくらいには卓球技術をつけた
・国家資格の免許をギリギリ取れるくらいにはカラダや運動の知識をつけた
という、
”そこそこのスキルの組み合わせ”
と言えそうですね(胸張って名乗れるほどの技量じゃないので、理学療法士の免許があることはあまり公にしたくないけど笑)。
このへんはビジネス書にこれでもかと書かれていることですし、僕が得意げに話せるようなことではないので、これ以上は割愛。
一万時間の法則にとらわれると苦しくなりそうなので、自分なりに成長することをベースに取り組みながら、継続することで価値になるものを探していくのが良さそう。
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