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根府川の海:茨木のり子

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

「根府川の海」

茨木のり子(いばらぎ・のりこ、1926年~2006年)…詩人。本姓は、三浦(みうら)。旧姓は、宮崎(みやざき)。

根府川駅のホームと相模湾

画像は、神奈川県小田原市根府川(ねぶかわ)にある根府川駅からの景観。1945年8月16日に、つまり終戦の翌日に茨木のり子は東海道線に乗車して東京から故郷である愛知県西尾市へと向かった。その時の情景が要素となってまとめられたのが上述の詩である。

茨木のり子を知ったのは、いつ頃だろうか。名前は知っていたのだろうか。学校の教科書か参考書か。取り敢えず「自分の感受性くらい」という詩との出合いは衝撃だった。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「自分の感受性くらい」

上記の言葉で終わる詩。いやはや、驚いた。全文でも大した文章量はない。分からない言葉もない。中学生くらいなら分かる語彙。それが組み合わさっただけで、これほどまでの詩になる。思わず他の詩も読んでみたいと、またこの茨木のり子という詩人はどんな人物なのかも知りたいと、思った。

まずは、詩を読み漁る。「わたしが一番きれいだったとき」「寄りかからず」「ぎらりと光るダイヤのような日」などなど。詩人の言葉の鋭さ、詩人の感性の豊かさ、詩人の世界を見つめる眼差し。恐ろしいと思うほど。関連書籍なども読み進める。

ノンフィクション作家の後藤正治(ごとう・まさはる、1946年~)による『清冽 詩人茨木のり子の肖像』が、茨木のり子を知る上で非常に参考になる本である。

ちなみに茨木のり子は医師の家系に生まれている。そして、その家系の病院は現在も愛知県西尾市にある。宮崎医院のことである。公式ホームページの宮崎医院の歴史などを見ると、初代医院長として宮崎洪(みやざき・ひろし、1897年~1963年)のことにも触れられている。茨木のり子の父親である。

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