〈短編小説〉新しい街
大粒の雫が落ちてきて、アスファルトに水玉模様が広がっていく。街路樹の下に駆け込むと空が鳴った。
どうしてこんなタイミングで家を出てしまったのだろう。わたしが「最低」と呟いたとき、近くのカフェから出てきた、白髪交じりの店員の女性と目が合った。
店の前に可動式テントを延ばし、傘立てを置く。彼女が店内に戻っていくと、そこは通りすがりの人たちの一時避難所になった。折りたたみ傘を紫陽花のように鈴なりに咲かせ、散っていく。
今朝、同棲中の恋人と喧嘩をした。部屋着のまま、何も持たずに家を飛び出してしまったが、行き場がなかった。毎日が会社と家の往復で、引っ越してきて三ヶ月も経つというのに、わたしはこの街のことを何も知らない。
雨脚が強まって、街路樹の葉から大粒の雫が滴り始めた。木陰でやり過ごせなくなって、カフェのテントの隅に移動した。足元の水溜まりが広がっていくのをぼんやりと眺めていると扉が開き、先ほどの女性が顔を出した。母親と同じくらいの年に見えるが、店主だろうか。
慌てて立ち去ろうとすると「ちょっと待って」と声がかかった。振り返ると、彼女はタオルを押し付けてきた。
「一旦中に入って。風も出てきて危ないから」
大丈夫です、と断ったが、まだ開店前だから気にしないでいいの、と半ば強引に店内に引き入れられた。
四人がけのテーブル席が二つとカウンター五席だけの、木の温もりを感じられる店だった。カウンターの横にはガラス戸の冷蔵庫があって、棚の上半分をホールチーズが占拠している。
わたしはいつか地理の教科書で見た、オランダの市場を思い出していた。
「いやねえ、突然こんな雨だなんて」
彼女は快活な口調でカウンター席を勧めてくれた。椅子が濡れてしまうかも。わたしは背筋を伸ばして座り、タオルで濡れた髪を拭く。
Tシャツとスウェットの部屋着に上着を羽織っただけで、肩までの髪はあちこちを向いているし、メイクもしていない。学生ならまだしも、社会人五年目にもなってこれはないよなあ。心の中で自虐しながら、さりげなく髪に指を通す。
店内には周波数の合わないラジオのような、ざらざらした音が鳴り続けている。酷い雨だ。しばらくは止みそうにない。
「雨宿りのあいだ、コーヒーでもどう?」
「ごめんなさい、今、お財布もスマホも、何も持っていなくて」
「そんなのいいのよ、ちょっとね、誰かに飲んでみてもらいたいものがあるの」
彼女はカウンターの中に入って、ミルで豆を挽き始めた。コンロの上の棚に置かれていた、柄杓のような形をした鍋を取ると、ふわふわ舞うほど細かく挽いたコーヒー豆と、ミネラルウォーターを入れて火にかけた。
これまで見たことのない淹れ方だ。彼女は呆然としているわたしを見て「やっぱり、そういう反応になるわよねえ」と楽しげに笑う。
鍋の中でコーヒーが煮え始めた。表面に泡が立ってくると、火から下ろしてかき混ぜ、それからまた火にかける。それを数度繰り返して砂糖を入れ、彼女はコーヒーカップの中に鍋の中身を残さず注ぎ込んだ。
「はい、おまたせ。粉が底のほうに沈んだら、上澄みを飲んでね」
カウンターにコーヒーが置かれた。エスプレッソよりも透明感がなく、どろどろした物体だ。フィルターを通していないからか、豆の油がうっすらと表面を覆って黒光りし、正直気味が悪い。
「いただきます」
わたしはおそるおそる、コーヒーカップに口をつけた。熱すぎて味がよくわからない。しばらく置いてから、もう一度飲んでみた。煮詰まったコーヒーに砂糖を合わせることで、苦味を深みに変えてくれるのだろう。悪くない。
「美味しいかも」
ぽつりと呟くと、彼女はぱっと表情を輝かせた。
「それね、トルココーヒーっていうの。息子の恋人が教えてくれた淹れ方なのよ」
トルコ人なの、しっかりしていている子でね、と嬉しそうに微笑む。日本では豆を直接煮出してコーヒーを飲む習慣はないが、中東では一般的らしい。
淹れてもらったコーヒーがあまりにも美味しかったから、こっそり道具を揃えて練習し、彼女を驚かせようと思ったのだと言う。
「ごめんね、突然捕まえて実験台にしたりして。全部見よう見まねなんだけれど、昨日の夜にやってみたらまあまあ美味しくできたから、ちょっと誰かに飲んでみてもらいたいなって思ってたの」
「メニューに載せてもいいくらいですよ。美味しいです」
「ほんとに? お世辞なんていいからね」
そのとき、濃厚なコーヒーで胃が刺激されたのか、おなかがぐうと鳴った。慌てて胃を押さえたが、二度目はさっきよりも盛大な音を立てるから、居たたまれなくなってくる。
「軽く何か食べていって。コーヒーの実験台になってくれたお礼に、どれでも作るわよ」
彼女は親しみのこもった笑顔を向けながら、メニューを差し出してきた。
サンドイッチ、オムライス、ピラフ、スパゲティ、ピザ。冷蔵庫に目線を送る。あの丸いチーズはどれに使うのだろうか。
「常連さんに人気があるのはピラフかな。うちはチーズ入れてるのよ。ハムは自家製」
フライパンで炒めて、とろりと溶けたチーズが絡んだ温かいごはん。自家製ハムと、ブラウンマッシュルーム。想像しているだけなのに、口の中に唾液が湧いてくる。そして思い出すのが、ごはん党の恋人の顔だった。わたしよりも、彼の方がチーズピラフに飛びつきそうだ。
「それ、食べてみたいです」
彼が一番気に入るであろうものを、自分一人だけが食べる。そうすれば、喧嘩の苛立ちも晴れるかもしれない。
「そのコーヒーさ、飲み終わったらお皿の上にカップをひっくり返しておいてね」
はあいと返事をすると、早速準備を始めていた彼女が、振り向いた。
「ちょっとは元気出てきた?」
「えっ」
「ほら、あなたさっき外で言ってたでしょ。最低って」
途端に耳が熱くなる。その一言を気にかけて、強引に店に連れてきてくれたのだろうか。
「実は今朝、彼氏と喧嘩しちゃったんです。一緒に住む部屋のカーテンをわたしが選ぶって約束だったのに、今朝起きたら勝手に付けられていて」
彼女が料理をする最中、わたしは自分の話をした。大学の頃から付き合っている恋人と同棲することになって、三ヶ月前にこの街に引っ越してきたこと。元々一人暮らしだった彼の部屋から、ほとんどの家具や電化製品を持ってきて、自分の選んだインテリアが何もなかったから、カーテンだけはわたしが選ぶ約束だったこと。気に入るものがなかなか見つからず、探し続けていたのに、彼が勝手にカーテンを買い、取り付けてしまったこと。
言葉にしてみると、くだらないなと思うのだが、朝起きて緑色の薄っぺらなカーテンを見た瞬間、燻りながら膨らみ続けていた何かが、ぱちんと弾けてしまったのだ。
「絶対、向こうはわたしのこと頭おかしいって思ってますよ。カーテンごときで、なんでこんなにって」
「家に置くものって結構悩むのよね。長く使える、飽きの来ないものがいいし、自分だけじゃなくて、相手にも気に入ってもらえそうな、素敵なものを選びたいって思うし」
わたしは彼女の横顔に向かって頷いた。
「そうなんですよ。でも、彼は色んなことに無頓着な人なんです。そういう大らかなところが良いなって思ってたのに、一緒に住み始めたら、悪い方に気になっちゃって。結婚前に同棲すると、ダメになるとかみんな言うけど、こういうことなのかなって。でもそれだと結婚しても、どうせダメだったってことですよね」
「でも、ちょっと不思議だと思わない?」
「はい?」
「無頓着だったら、カーテンなんてわざわざ買わないんじゃない? 雨戸があれば眩しくて眠れないっていうこともないでしょ」
「ああ、でも」
反論しようとして、わたしは口をつぐんだ。確かにそうだ。なくても困っていないのに、彼はどうしてわざわざカーテンを買ったのだろう。
こんこん、と時々フライパンの縁に木べらの当たる音がする。ブロック状に切られたチーズが、混ぜ込まれていく。
「わたしも昔は夫と喧嘩ばっかりしてたなあ。隣の家の人が心配して見に来たりしてね、まあ酷いもんだったわよ。家の中なんてその度にぐっちゃぐちゃで」
「喧嘩して家に帰りたくないときって、どうしてました?」
「一人で好きなところに出かけて、美味しいものお腹いっぱいになるまで食べて、寝る。わたしは食い道楽だからこれで一発よ」
彼女は豪快に笑った。
「まずは自分自身を喜ばせてあげなきゃね。気持ちに余裕がないと、相手のことを考えたりもできないでしょう」
深皿に熱々のピラフが盛られた。パセリのみじん切りを振って完成だ。コンソメとバターの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐって、また胃袋が唸り始めた。
「いただきます」
スプーンでピラフを掬うと、チーズの塊がとろりと流れ、糸を引きながら零れ落ちた。さっくりした歯触りのパプリカと、味のよく染みたマッシュルーム。掬い取った具材によって、一口ごとにさっぱりとこってりが入れ替わる、飽きのこない味。わたしは夢中になってスプーンを動かし続けた。
冷えた身体がおなかの中から温まって、次第に心がほどけていく。何故だか目元まで熱くなってきて、わたしは鼻をすすり上げた。
なにこれ。一人でいい思いしてやろうと思ってたのに、ひどい罪悪感。やっぱり彼と一緒に食べたかった、なんて、ばかみたい。無口なあの人が、美味しさに目を輝かせる姿を思い描いている。
アパートの内見をしようと、二人で初めてこの街に来たとき、不動産屋に案内されてこの辺りを通った。背の高い街路樹がどこまでも連なった、緑溢れる景色を見て、駅までは少しあるけれど、ここにしようと決めたのだ。
朝早起きして一緒に街を散歩しようとか、晴れた休日にはベランダでランチをしようとか、ささやかな夢をたくさん抱えてここに来た。ついこの間のことなのに、遠い昔みたいだ。
実家を離れたことがなかったわたしにとって、初めての二人暮らしは思っていたよりも大変だった。良いところを見せようとして「家事は任せて」なんて言っていたのに、結局は仕事以外のことに手が回らずに、自分で自分が嫌になる。
彼が黙って掃除や洗濯を始めると、無能だと責められているような気になって、八つ当たりした。それが優しさだと、ほんとうはわかっているのに。
カーテンだってきっと。どんな思いで用意してくれたのか想像すると、胸が詰まりそうになって、スプーンを下ろした。
店内に光が差し込んで、振り返る。変わらず雨は降り注いでいるが、空は少しずつ明るくなってきている。
窓の外に、スーツ姿の男性に手を引かれたレインコートの女の子が見えた。蕾が開くように口元を綻ばせ、フードを外した。
「雨、もう止みそうね。よかったわね」
「家に帰ったらお財布持ってここに来ます。こんなに美味しくいただいたのに、お金を払わないのはちょっと」
わたしは椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「いいのいいの、そんなことは。そういえばさっき裏返したカップ、表に返してみて。コーヒー占いしてみましょうよ」
カップの底に残った粉が、流れて作った模様で、運勢を占えるのだという。そっと表に返してみた。底に沈殿していた粉が流れて、潮の引いた海岸のような、網目模様ができていた。
女性はカウンターの隅にあった眼鏡をかけ、エプロンから紙を取りだした。占いの結果が書かれているようだ。紙とカップを見比べている。
「見ても、全然どれだかわからないわね」
わたしは立ち上がって、紙を覗き込んだ。
「蔓とか、植物ですかね」
仕事や日々の生活に疲れていて癒しを求めている、と書いてある。答えを先に見てしまったから、模様が植物に見えるのかもしれない。あまりいい運勢とはいえないが、納得はできる。
「あら、よかったじゃない」
「え、どこがですか」
「何でもああよかった、って思ってみると、悪いことばかりじゃなくて、良いことにも目が向けられるようになるわよ。きっとね」
彼女は店のドアを思い切り開いた。雨は上がったようだった。足を止めた人と話をする姿を見ていて、わたしははっとした。
メニューを取って、一番後ろのページをめくる。休日の営業時間は午前十時から。もうとっくに営業しているはずの時間だったのだ。
ピラフを空にして、器に向かって手を合わせた。表に出ると、道にいた誰もが同じ方向を見上げていた。灰色の空には、分度器を当てて描いたような虹が架かっている。
「すごい」
「仕事さぼってたおかげで虹が見られたわ。雨上がりの緑って綺麗よね」
草花は雨の雫で息を吹き返したようだ。新緑の街路樹からは、小鳥の囀りが聞こえている。
緑豊かな景色に一目惚れして、この街を選んだはずだったのに、わたしはいつもどこを見ていたのだろう。
「あとで彼と一緒に散歩でもしてみたら?」
駅を越えてこの道を真っ直ぐ進むと、変わり種おにぎりばかりを扱った専門店があるとか、メンチカツの美味しい惣菜屋があるとか、彼女はこの街の情報を教えてくれた。
カフェの中に子連れの女性が入って行った。お客さまの来店だ。
「じゃあね」
追いかけて店に戻ろうとした彼女に「色々ありがとうございました」と頭を下げると「何かあったらまたいらっしゃいね」と優しく背中を叩いてくれた。
雨降りも悪くなかったかもしれない。わたしは濃い緑の香りに包まれながら、心の中で呟いた。
ああよかった虹が見られて。美味しいピラフをご馳走になって。温かい人のいるこの街に住んで。無頓着に見えて細やかな、彼の優しさを知ることができて。
一緒に住むようになって、甘えすぎてしまっていたのかもしれない。いつも側にいるのだから、言わなくても気持ちは伝わるだろう、と。
家に帰ったら、何から話そう。悩みながら道を曲がると、遠くに傘を二本提げた、ずぶ濡れのあの人が見えた。
〈新しい街〉
2021/12発売の短編集「飛び立つとき(とりのこ制作室)」より
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