震度7の朝、妻は妊娠9ヶ月だった
1995年1月17日(火)AM5:46。
瞬間なぜか「打ちこわしだ!」と目が覚めた。
大勢の人が丸太を持ってボクの家を壊しに来たのかと思ったのだ。打ちこわしなんて高校の歴史で習って以来思い出したこともないのに。
我が家(といっても賃貸マンション)は神戸の少し東、夙川という住宅街にあった。たまたま活断層のすぐ近くだったらしい。
ほら、ガルってあるでしょ? 地震による重力加速度。簡単に言うと揺れの単位。あれによると、ボクの住んでいたあたりは一番値が大きい。つまり三ノ宮よりも長田よりも、ここらへんが一番揺れたということ。
幸いマンションは無事。
3階建ての背の低いコンクリート打ちっぱなしのマンションだったせいか、建物自体はひび割れ程度の被害だったのだけど、とにかく中身はグジャグジャ。
夜が明けてからわかるのだけど、29インチのテレビ(※液晶テレビが出る前の、ものすごく重い四角い塊)が5メートルほどすっとんで部屋の反対の隅に転がっていた。
本棚も飾り棚も倒れてグチャグチャ。
愛するオーディオも倒れてグジャグジャ。
床は割れた食器で足の踏み場もない。CDもかなり割れている。
まさにシェイカーで激しく振られた状態だ。
「物っていうのは壊れるんだなぁ」と世の無常を感じた瞬間だった。
その後、物欲も以前ほどなくなった。死と紙一重になるなんてこと普通そうは体験しないよね。体験してみればわかる。以前の自分とはもうずいぶん違う。
電気はつかない。停電だ。
冬の早朝だからまだ真っ暗。普段経験したことがない真の闇。
一歩先も見えないリビングを通り抜け(奇跡的に割れた食器などで足をケガしなかった。ここでザックリ足を切っていたら大変だった)、とりあえず玄関へ向かう。
もちろん揺れがおさまってからである。
揺れている最中は何も出来ない。立つこともできない。
それどころか寝返りも打てない。ベッドにあおむけの姿勢のまま、じっと約40秒間耐えていただけである。
ボクは、ラグビーなど多少のスポーツをやってきた。
それなりに体力と筋力と瞬発力のある34歳(当時)。
それでも、1ミリたりとも動けなかった。
揺れ始めてすぐ目が覚めたのだけど、あとはベッドで両手両足を踏ん張っていただけ。何もできない。
「まず火を止めろ!」「机の下に潜れ!」なんて嘘。この規模の地震なら絶対その場から動けない。動けるくらいの地震ならしれている。
妻の優子は妊娠9ヵ月。
たまたま前日が彼女の誕生日で、大きなお腹かかえて神戸は三宮の「イル・コルノ」というイタリアン・レストランに行ってきた。
楽しい夜だった。
帰ってからたった7時間とちょっとでこんなことになるなんて…。
たまたま寝室に背の高い家具を置いていなかったから、何も倒れてこずお腹は助かった。たまたまだけど、本当に良かった。
倒れたタンスでの圧死は非常に多かったとあとでわかる。1ミリも動けないんだもの、逃げられもしない。
みなさんも、寝室に背の高い家具は置かないようにね。
それにしてもこういう状態での母体は強く出来ている。
流産をしないように身体がショックを受けにくくなっているのかもしれない。なにしろ揺れがおさまってから「え?なに?」って目を覚ましたんだから。
すげー・・・
しかも、揺れではなくてボクが怖がって出している大声で目を覚ましたらしい。
あの揺れで目を覚まさないって・・・妊娠中だから鈍感なんだ、と思いたい。生まれながらに特別鈍感な妻だったとしたら・・・恐ろしくて考えたくない、よね?(笑)
外へ出たが、外も真の闇。
ガスの臭いが強烈にする。どこかとても近いところでガス漏れしている。ガス管が破裂しているのかも。
ドアの前で新聞配達のオバサンと会った。
ちょうど朝の新聞配達の時間だったのだ。
「な、な、な、なにこれ!?」
オバサン言葉を失っている。
目の前にいるボクから目をそらすと、ふらふらっと向こうに行ってしまった。
あのオバサン、どうしているかな。
家という家から強烈な破壊音が聞こえ、周りでいくつもの家が崩れ落ちる中にいたのだ。さぞかし怖かったことだろう。
光が動く。ヘッドライトだ。
あ、目の前をバイクが急いで走っていく。
あぁあの人も新聞配達の人かな、急いで自分の家の様子を見に行くのかな、と思っていたら、「ドーン」とすごい音がして、バイクが道の地割れに落ちた。
そう、アスファルトの道のいたる所に大きな地割れが出来ているのだ。
地割れ、初めて見たよ。都会でも地割れなんて出来るんだ・・・
助けようか、とも思ったけど、急にガスのすごい匂いが気になった。
今の事故の火花で引火したら・・・怖い。
時は乾き切っている冬の朝。鉄製のドアの静電気すら怖くなる。あ、ドアといえば、屋内に妻を置いてきた。
・・・そうだ、妻は臨月なんだった!
無事ではあったが、産気づいたりしていたらマズイ!
バイクの人には悪いけど、再び真っ暗な家に入り、クロールするように闇を探りながら、急いで妻を見に行った。妻はベッドの上で洋服に着替えていた。
妻の安全を確認して少し話したあとに玄関に戻ったが、バイクの人は自力で脱出したらしくもういなくなっていた。
・・・いや、そもそも夢だったのかもしれない。
すべてに現実感がない。
マンションの隣の人が出てきたので少し話したが、寒い外気が肌を刺し続けていなければ、いまこうして話していること自体も、完全に夢の中の出来事だと思っただろう。
だんだん空が明るくなってきた。
朝だ。
「横の道入っていったところに大穴があいていてそこからガスが吹き出ている」と、隣の人。
ちょっと怖かったが見に行ってみる。
ガスは怖い。
でも、少し明るくなってきたことで恐怖感が薄らぎ、「ちゃんとしなくては」という自覚が出てきた。
行ってみたらすごいことになっていた。
地面からブシューっとガスが吹き出していてガスの向こうがカゲロウ状態。
とにかく引火に気をつけなければ。今は停電しているからいいが、電気が通った瞬間に爆発が起こるのではないか、と心配する。
その心配はあちこちで現実になったらしい。うちは大丈夫だった。
隣の人は行動が早く、クルマを駐車場から出してきて乗っていた。
外は1月の冷気に包まれている。電気が来ずエアコンがつかないから屋内だってものすごく寒い。クルマに乗るのは正解だ。
妻も呼んで乗っけてもらう。
クルマにはもうひとつ利点がある。
そう、ラジオが聞けること。
ラジオは「大阪で大きな地震があった模様です。詳しいことはわかり次第お知らせします」と繰り返している。
大阪?
そうかここらへんよりすごいことになっているのか。大変だ。ここらへんだけでも噂に聞く関東大震災並みなのに。大阪は壊滅だろう。
大阪より神戸の方がひどい、とわかるのは2,3時間あとのことだ。
「母たちが心配だ」と妻が言い出す。
義母はここから車で10分ほど山に上がった苦楽園に住んでいる。
祖母と2人で住んでいる(義父は東京に単身赴任中)。地割れを考えるとちょっと怖いけど、「周りの被害はどうなっているのか」という好奇心も手伝って出かけることにする。
隣の人のクルマから自分のクルマに移って、エンジンをかける。
キーを回す瞬間、爆発しないかちょっとヒヤッとした。クルマが無事なのも単なるラッキーだ。路上駐車の誰かのクルマは、落下物でつぶれていた。
走り始めると思ったより街の被害が大きいことに気が付いた。
電柱は倒れ、電線はほとんど切れてブラブラ状態。
危ないから上を見ながら徐行すると「あ!」と妻。
そう、地割れに落ちる寸前。
上にも下にも、そして傾いた家や塀(道に半分ほど傾いて、今にも、っていう家がすごく多い)にも気を付けつつ、じわじわ進む。
義母も祖母も無事だった。
山の上の方の家はあまり被害がない。揺れの質が違ったようだ。
義母の家は見晴らしがいい。
窓の下に広がる市街地を見る。あちこちで火の手が上がっている。
我が家に火の手が回らないかが急に心配になってきたが、口に出さないようにする。
鈍感(?)とはいえ9ヵ月の妊婦。
いつショックで産気づくとも限らない。いま産気づいたらお湯も湧かせない。ガスも電気も当分来ないだろう。
いや、病院は非常用自家発電があるかな?
とはいえ、医師が病院までたどり着いているかどうか・・・。宿直医は足りないだろうしなぁ、とか、いろいろ気を揉む。
あとせめて一週間ほど鈍感で居続けてくれ、と願うばかり。
やっと朝7時だ。
あまりのことに、ボクの実家(東京)に電話するのを忘れていた。
母はまだ寝ていた。
「ニュースつけて! すごいことになっているんだって。そう! そんで、こっちはとにかく無事だから!」とだけ言って切る。
この時間にかけておいて良かった。
このあと電話は全然繋がらなくなる。目覚めてニュースを見た日本中の人が知り合いのところに心配の電話をかけ始めたからだ(まだメールすら全然普及していない時代の話だ)。
クルマで20分ほどのところに住む義母方の祖父母の様子を見に行くことにした。
古く趣のある家に住んでいただけにスゴク心配だ。
電話もつながらない。
妻が特に心配している。気を揉んだあげくいきなり産気づかないかと、ボクも気を揉む。
当然妻は置いていこうと思ったが、すごく心細がるのでクルマで一緒に見に行くことにした。いつ大きな余震が来るかもわからないから離ればなれにならない方がいい。
いや、その時点では「この大地震自体が余震で、本震がこれから来るのかもしれない」ということも心配していた。ホント、何が起こるかわからない。
普段ならクルマで20分くらいで着くところだが一時間くらいかかった。
地割れなどに注意しながらゆっくり進んだこともあるが、周りの人もだんだんクルマで移動し始めたのだ。
ひどい被害を横目に進む。
祖父母の家はとても古い木造家屋。このぶんだと無事であろうはずがない・・・妻はもう涙ぐんでいる。
着いてみると家は立っていた。傾いているが、かろうじて。
でも玄関は壁が落ちて一歩も入れない。
庭に回る。ガラスは全部割れている。部屋の中もすごい有り様だ。
こりゃダメかもしれない・・・。
祖父母が壁か家具に押しつぶされているむごい場面がリアルに想像できた・・・。怖い。見たくない・・・。
と、思ったら、人影がある。
畳の寝室の真ん中、タンスが折り重なって倒れている中に、奇跡的にポカリと空間が出来ていた。
そこに祖父母が、ただ呆然と立っているではないか!
寝ていた布団は家具で押しつぶされている。
どうやってあの揺れの中、瞬間的にその半畳くらいの空間に逃げられたのか不思議だ。
本人たちも不思議がる。
が、とにかくそこから一歩も動けない状態だ。
家具や落ちてきた壁が邪魔していてボクたちもそこまでたどり着くことが出来ない。祖父母たちも座ることも出来ないような小さな空間なのだ。地震から2時間、寒い中に寝間着だけで、ずっと立ちつくしていたのだろうか。
壁を剥がしたり家具を移動したりしてようやくたどり着く。
祖母は手に大きな怪我。血が出ている。
祖父は元気。
「一緒にここを出ましょう。余震が来たらつぶれちゃいますし」
当然一緒に来てくれると思ってそう言ったら、「いや、家にいる」と言い張る。
すごく頑固だ。
座る場所もないのにどうするんだ?
言い合いになる。でもどうしても家から離れたがらない。
こういうのを「一所」懸命というのか、などと考えつつ「(祖父母の)長男にすぐ来るように伝える」ということで妥協した。
あとで聞いたのだが、どうもボクのことを「よく知らない大男が急に家を壊して入ってきて、自分たちをどこかに連れて行こうとしている」と思って、「絶対に怪しい!」と用心していたらしい。
いやいや、孫の優子もいっしょにいたやん!
とか思ったけど、でも、あの異常事態のときにそんな客観的判断できないのもよくわかる。しかも自分たちの大事な家が、ほとんど壊れているし、貴重品や骨董品なんかも置いてどっか行くのは感情的にイヤだよね。
いまなら、わかる。
仕方ないから、家が余震でつぶれないことを願いつつ、祖父母の家を離れ、長男宅へ急いだ。そこからまたクルマで1時間くらい。
長男はすれ違いで祖父母の家に行ったあとだった。祖父母は結局なんとか無事に長男宅に移った。
夙川の自分たちの家に帰ってみる。
3LDKのうち、一部屋はドアが開かない。
家具や本やマックがぶっ飛んでドアの内側に折り重なっているのだ。開くわけない。あとで考えよう。
あとは寝室と和室。
和室が特にひどい。29インチ(当時は最大級)の重いTVが部屋のこっち側に転がって、本棚の下になっている。
これってどういうことかというと、本棚が倒れる前に、あの重くて大きいTVが、コンセントをぶっちぎって部屋の隅まで5メートルほどぶっ飛び、その上に本棚が倒れた、ということ。
最初のひと揺れであの重いモニターが5メートル飛んでいるわけ。配線ちぎって。
・・・これでわかるよね。どのくらい揺れたか。
とにかく整理をしだす。
ガラスが散乱している。
棚に置いておいたバーボンが全部割れたので部屋中がバーボン臭い。
ボトルが落ちて、その上に棚が倒れて、固いボトルも木っ端みじんになっている。フローリングの床がバーボンのアルコールに焼かれて白っちゃけている。
数千枚コレクションしていたCDがたくさん割れている。
割れたCDを整理しながらわりと冷静な自分に気付く。物欲のかたまりだったのに全然惜しいと思っていない自分に。
妻も無言で整理を始めている。
「あぁ・・・高い食器に限って見事に割れてるわ」と小さい声でつぶやく。
和の器、洋食器、グラス、カップ・・・
いろいろ集めていた大事な食器類がほとんど全滅。
どうでもいい安い食器だけ、なぜか割れずに残っていた。
ふと、便意を催す。
そこで初めて大きな失敗を仕出かしたことに気が付く。
「水だ! 水を確保しないと!」
もう全然遅い。
蛇口をひねってもポトッとも出てこない。揺れ直後なら、まだマンションの貯水槽に水が残っていただろうに!
・・・こ、これって、水洗便所にはいけないということ!?
飲み水なんかより「トイレの水が死活問題である」、と思い知る。
やばい。
夫婦とはいえ、流れないトイレに排便して、妻に見られるのはイヤである。
「と、とりあえず小学校に行ってくる!」
と、妻に言い残しすぐ近くの小学校に「大」をしに出かけた。
寒いからダウンジャケットで着膨れて走っていったのだが・・・甘かった。
当たり前だが、小学校も水洗なのだ。
そして水が流れないトイレは、地震があってまだ5時間くらいしか経っていないのに、すでにてんこ盛りだった。
しゃがむ式の和式トイレの便器上が、富士山型の山になっている。
そのまましゃがんだらお尻に付きそうだ。
でもしたけど。
汲み取り便所、どこかにないかなぁ・・・(あるわけない)。
急いで家に帰り、バケツを持って小学校の池に行く。
緑に濁った水を汲んで3回往復してやっと水洗1回分の水を確保した。
でもそこもすぐなくなった。あとは川へ行って汲み出すのみ。
ええ、もちろん野糞も考えたけど、いまどきの都会では野糞が出来るスペースもほとんどない。
それに女性は野糞もそうは出来ないだろう。
みなさん、地震がおこったらまずトイレ用の水の確保ですよ。忘れないで!
妻が落ち着いている模様なので、しばし一人で近所を歩いてみる。
30mほどのところの家の中で人が助けを求めているらしく、男たちが集まっていた。
家は次の瞬間にも倒れそうに傾いている。
助けるために人が中に入ったら、その体重だけでバランスが崩れてつぶれそうである。
「入るな!」「救助を待て!」 とみんなが声を出す中、意を決したらしい中年の男性が家に入っていく。
救助なんか当分来ない。誰かが助けないといけない。そんな話し合いがあったらしい。
ひとり入ったあと、数人が勇気を出して入っていく。
余震が来たらヤバイから、と、残された男たちは家の壁を人力で押さえることに。
ボクも参加した。
助けを求めている人は何かに挟まれているらしく動けない。時間がかかる。男手は足りているようなので、ボクはいったん妻の様子を見に家に戻ることにした。なにせ臨月なのだ。
冷静に街を見回してみる。
苦楽園口から夙川、芦屋あたりの街並みは、本当に美しく、大好きだった。東京から転勤してきたボクは、その街並みを第二の故郷と思うくらい愛していた。
でも、もう同じ街とは思えない。
それほど壊れていた。
すぐ近くのコンクリートで出来た丈夫そうな豪邸も崩れ落ちている。
一階をガレージにしている家も軒並み一階がつぶれている。
ボクたちは命が助かっただけでも幸せなのだ。おまけにお腹の赤ちゃんまで助かった。今のところは。
家に帰ったら、パンが用意されていた。
冷蔵庫の中のものをベランダに出す。電気が来てないから外気の方が冷えるのだ。
妻に周りの報告をしつつパンを急いで齧り、さっきの潰れた家へ戻る。
もう誰もいなかった。どうやら助かったらしい。
ホッとして近くの小学校まで足を伸ばしてみる。避難所になっているらしいと隣の人が言っていたからだ。
小学校は人がいっぱいいた。
親しい人を見つけては、みな「無事だった~?」と抱き合って泣いている。
もらい泣きしそうだったので、その場を離れる。
まだ避難所の形態をなしていない。ここが避難所っぽくなったのはそれから丸一日以上たった後のことである。
ボクたちは余震におびえながら2晩過ごした。
夙川は電気の復旧が早く、震災当日の夕方前には電気が来たので、電子レンジでおかずが作れた。
倒れた家具で開けられない部屋からなんとかマックを救い出し、座敷に据えて気晴らしにふたりで「まきがめ」(ゲーム)をやったりした。
他のことを考えずにゲームをしたことでやけに落ち着いたのを覚えている。現実逃避が必要だったのだな。
テレビもなんとか見られる状態にし、ニュースで燃える長田を見た。
東京をキー局とする全国放送では、「いま東京でこの規模の地震が起きたらどういうことが起こるか」という検証をしていた。神戸がたった今こんな状況なのに。
もうとっくに馴れたと思っていた東京偏重・東京本位の報道にただただ呆れる。
マスメディアは、全国の視聴者に最大公約数的情報を伝えるものである、ということは頭ではわかっている。
でも、まだ、周りの潰れた家に人が埋まっていて、救助活動が行われている緊急事態の状況なのだ。ボクたちも情報が足りなくて不安に怯えているのだ。もっと伝えるべき情報が他にたくさんあるだろう!
とにかく関西発信の放送局を探してザッピングする。
でも、細かい情報、つまり、住んでいる地域周りの「欲しい情報」は取り上げてくれない。当たり前なんだけど、どんどん腹が立ってくる。
テレビをバンッと消して、マックを電話線につなぎ、インターネットを見ることにする。
1995年である。
グーグルが日本でサービスを始めるまでにまだあと5年かかる。つまり検索もまだ原始的な状況。
そして、個人サイト(当時はサイトなんて呼んでいる人はひとりもおらず、かろうじてホームページという言葉が流通し始めていた段階)なんて日本に数十しかない。
そんな中、リンク集を辿りながら、神戸や大阪の個人ページをじわりじわりと探して見ていく。
そうしたら、神戸周辺で「この辺はこんな感じで壊れていて、いまは特に毛布が足りない」みたいな情報を出している人がいた。
そのホームページを見た瞬間の稲妻を、いまでもリアルに覚えている。
これだ!
必要な情報を必要な人に届けることを、「個人」で手軽にできる時代が来るんだ!
このときの稲妻が、半年後、避難生活を送っているボクに、個人ホームページを作らせることになる。
そうしてボクの人生は大きく展開していくことになるのだが、それはまた別のお話。
いくつか大きな余震がありつつ、なんだかんだ落ち着いた夜8時。
いきなり大停電になった。
真の暗闇になった。
たま~に電気が来ては止まったりしていたみたいだが、通電火災が怖くてそれからはブレーカーを落としっぱなしにした。
ボクはどうしても眠れず、割れずに残ったウォッカをがぶ飲みしつつ、やっと通じるようになった電話(まだ携帯なんてものはない)で、暗闇の中いろんな人と話をした。
大阪や宝塚の知り合いに電話をしたが、みんな「こっちがいかに揺れたか」「どんだけ怖かったか」ということしか言わない。みんな、自分がいかに大変な苦労をしたかばかりを話す。
そうか・・・。
結局、災害とはごく個人的な体験なのだ、と理解する。
他人とわかり合うふりは出来ても、結局自分だけの体験なのだ。
それ以来「こんなに揺れてこんな苦労をした」というような話は、興味本位の他人の前ではしないことにした。
ウォッカが効いてきて、ようやく少し寝た。
でもちょっと音がするだけでびっくりして飛び起きた。
これはあれからずいぶん経ったいまでも続いている。
音が怖い。
破壊音が怖い。
ちょっとトラウマになったようだ。
3日後、会社の京都寮まで脱出した。
妻がいつ産気づいてもいいように。
通っていた産婦人科は野戦病院化しているし、まだガス復旧の見込みがないし、いつ、もっと大きな余震が来るかわからないし・・・まずは京都まで、妻の体力と相談しつつ移動し、医者に診せようと思った。
西宮まで出て電車に乗る。
大阪で乗り換える。
駅のトイレを使う。水がたっぷり流れる。すごい! 水が流れるってすごい!
・・・それにしてもなんてこった。
大阪ではみんな普通の生活をしているではないか。
なんだか被害者意識と自己憐憫がわき上がってきて困る。
なんでボクらだけこんな思いを、とか思ってしまうのだ。
災害とは個人的な体験で、他人には関係ないのだ、と心に言い聞かす。
他人の助けがいらない、と言っているのではない。同情やら関心やらをかっても仕方がない、ということだ。
自分たちで災害を受け止め、自分たちで癒し、自分たちで再度立ち上がらないといけないのだ。
電車とタクシーを使って、京都寮にたどり着く。
寮の近くで会社の先輩にばったり会う。
先輩も逃げてきたらしい。
お互い顔を見合わせる。
背景に比叡山と鴨川。
美しい冬景色が急にリアルに感じられてくる。
ふっと、夢の中から脱した。
やっと脱した。
シャキッと立ち直った瞬間だ。
大丈夫。ちゃんとジョークも言えた。これで大丈夫。
先に着いていた上司夫妻(芦屋に住んでいた)は映画館に映画を観に行ったと聞いてまず苦笑。
その後ゆっくり感心する。
そう、そのくらいタフでないとな・・・。
寮のお風呂にゆっくりつかった時は「こんなに水を使っていいのかなぁ」と真の贅沢に今さらながらに気づいた。
水って贅沢品だぁ・・・。
あと、ちゃんとした温かい食べ物を久しぶりに食べたときも感動した。
京都寮の近くのうどん屋で食べた「鍋焼きうどん」。
一世一代、あんなにうまいもの、食べたことがない。
その後。
一週間、京都寮でお世話になり、妻の疲れを心配しつつ新幹線で東京のボクの実家に移動した。
そして、そこでなんとか子供を授かった。
結婚してちょうど1年目。
結婚記念日の3月6日に娘「響子」が産まれた。
遅産だった。震災のショックで逆に遅くなった、と医者が言っていた。
響子の響は、地響きの響。
いや、ウソです(笑)。
でもね。
でも、忘れない。
あの震災からの一週間、余震を怖がりながら、クルマで壊れた街を走りながら、真の闇に怯えながら、「無事に生まれてきてくれるのなら、後はもうなにもいりません」と神に誓い続けたことを。
娘に対して頭にきたり、キレそうになったりしたら、ボクはあの、怯えて生きた一週間と壊れた街を思い出して、自分を諫める。
「無事に生まれてきてくれるのなら、後はもうなにもいりません」って、あのとき誓ったよね、って。
※この文章は、1997年3月に書いた記事を加筆修正したものです。
※※他にも、震災体験記事を書いていますので、ご参考まで(↓)