ランドセルを背負う意味
最近のランドセルの人気色は、水色と薄紫だそうだ。
アナ雪の影響だろうか。
小学生まであとまだ二年ある娘も、薄紫が良いと言っている。
わたしが小学生の頃は、ランドセルと言えば、男子は黒、女子は赤だった。
時々茶色のランドセルをしょっている女の子がいた。
どんな子かは覚えていないけど、茶色のランドセルがこの世に存在することもしらなかった私にとっては当時衝撃的だった。
多分小学校に入学するころだった。父が、
ランドセルは不要だ。リュックのほうが軽いし便利だ。
みたいなことを言ってきて、
他の子と違うものは嫌。という理由でランドセルを買ってもらった。
しかし、物使いが荒い私は、すぐに本革のランドセルをぼろぼろにした。
それが理由なのかははっきりとは覚えていないけれど、
小学三年生の社会科見学でリュックを使って以来、
そのままずっと、リュックで登校した。
たしかモンベルの地味なリュックサックだったと思う。
小学三年生の当時の私が、いったい何をきっかけにランドセルをやめたのか。
全く覚えていない。
本革のぼろぼろランドセルが恥ずかしくなった気もするし、
本革ランドセルがまじで重くてしんどかったのかもしれない。
その肩の重みは今でもはっきり思い出せる。
でも、最後の決定打に関しては、自分でもよくわからない。
しかし、社会科見学の次の日も、その次の日も、リュックサックで登校した私を、
咎める人は誰もいなかった。
あ、リュックでもいいんだな。と思ったし、
わたし、リュックなんだよね。と思い始めた。
それから三年が経ち、最高学年になった。
もうすぐ中学生だと周りがちょっとカッコつけるようになっていく中、
私はやっぱりリュックだった。
そしたら、周りのカッコつけたい男子が、
「なんでお前はリュックなの?」と聞いてきた。
え?
今更?
もうその時点でちゃんとした理由は覚えてないし、
もし明確にあったとしても、はっきり言語化できるほどの能力を持ち合わせていない当時の私。
「あー私、三年生のときからランドセルなんだよね」
「先生に怒られないの?」
「べつに」
「えーじゃあ俺もリュックにしよ」
そんなわけで、次の日、クラスメイトがショルダーバッグで登校してきた。
すると、担任の先生が
「それはダメでしょう」というようなことを言った。
「え?なんで?あいつはリュックなのに」
「西巻は、なんか事情があるんだろう」
先生、私、別に事情なんてないですよ。リュックが良いからリュックしょってるだけですよ。
と思ったけど、特別な感じが心地よくて、言い出せなかった。
よくわからなかった。
学校のルールって、誰が決めているのだろう。
だから指定カバンがない中学に入学したとき、
「学生カバンは上級生が使うもの。下級生はリュックサックを使え」
みたいな謎のルールに対しても意味がわからなかったし、
小学生の時は六年間ランドセルで、中学に入った途端にリュックを推奨されるっていうのも意味がわからなかったし、独特のヒエラルキーにみんなが従順なのも意味がわからなかった。
結局、よくわからないルールとかしきたりとか伝統とかが全然理解できない特性があったし、今もそれは変わらない。
しかし、その特性が潔いと思えるほど確立していないせいで、思春期の私は集団に溶け込めない辛さも経験した。
頑張るんだけど、頑張り切れないし、自分の見せ方もわからないし、見られ方を気にしてしまう。
そういう時期に学んだことも多くあったけど、強さと弱さが混在していたあの頃を思い出すだけで、吐きそうになる。
娘はランドセルを背負うのを、いまから楽しみにしている。
最近のランドセルは軽量化も進み、色も種類も多様だ。
リュックサックを薦める必要はないかもしれない。
でも今一度、考えたい。
ランドセルを背負うことの意味とは?
三十年間続いてきた、私とランドセルの対立を、
もうそろそろ娘が経験する。
いや、対立せず、何の疑いも抱かず、ランドセルとの二人三脚を楽しむのだろうか。
今のランドセル事情を親として調査しながら、
私は、幼い自分とランドセルとの曖昧な確執を、溶かしてゆくのかもしれない。