自然と風土にセミアカデミーが必要な理由
自然や文化風土を扱う事業を進めていくにあたって、特にこの領域に関するアカデミックな知見を参照しながら自然と向き合っていくことが大切だと感じる。
今まで人類が積み上げてきたことを"叡智"という。この"叡智”は、自然と文化風土を扱うにあたって、とても重要な要素になる。
これまで培ってきたものを、どう継承していくか。
もちろん、その知の積み重ねに対して、先人たちが何百年と継承してきたことそれ自体がとても貴重だから継承する。という点だけでなく、このバトンを次の世代に今の自分たちがどうアップデートして渡していくか、という能動的な視点もまた、必要だと思う。
"叡智"の分断
今、課題なのは、その"叡智"の継承が分断されていること。
人は自然から生きることすべてを賄っている。いや、人も自然。その精神的・身体的感覚の中で、編まれてきた暮らしのあり方や文化風土が、ここ数十年のライフスタイルの変化によって分断されている。
身近な例では、うちの小さな山の敷地。荒れまくっているので整備しようとしたときに、おとなりの所有者のおじいちゃんに、ここは昔どんな山だったかきいてみた。
「子どもの頃はお蚕さんのための桑畑や、野菜を育てる畑だったんだよ。」
本当に?と疑いたくなるほど、今ではただただ、自然。でも確実にここは里山としての営みがあった場所だった。
こんな話も。
今年からはじめた手植えでの田植え。(お恥ずかしながら、わたしは人生で初の田植え)
「手で田植えするなんて、30年ぶりくらいだわ。」一緒に植えた60〜70代くらいのおばちゃんが言っていた。
この数十年、空白になってしまった人が自然とともに生きる"叡智"は、ほかにもたくさんあるのだろう。
答えのない問いに、どう答えるか
おそらく、これまで積み上げてきた人類の叡智と、わたしたちの現代の営みが分断されていることが、環境問題はもちろん、潜在的な課題も含めて、社会に対する違和感を生んでいるのではないかと仮説を持っている。
この”叡智”を、保存・蓄積していく行為が、アカデミックの役割だ。
今まで世界にないアプローチで、世界の課題にトライしていくスタートアップや、ひいてはすべての経営判断の場面で、その活動により価値を出していくとき、特にこれから大きく世界がすでに変わっているフェーズにおいて、アカデミックの知見は必須といってもよいのではと考えている。
がっつり研究活動をするのは、専門家に任せればいい。(経済活動外で行うべき純粋な研究領域もまた必要だから)
でも、これからは今一番社会にインパクトを与えているビジネス領域からもアカデミックな視点=セミアカデミーのマインドを持つことが、次の世代につなぐバトンの重みを与えることになると信じている。
経営だけでなく、なにか価値を出すために行うべき戦略を考えるにおいて、現状の全体把握は避けては通れない。この全体把握=客観的・網羅的に思考するための学術的な視点が必要だ。
特に経済性以外の価値にも重きをおく思想が広がりつつある中では、社会とは?人間とは?豊かさとは?いのちとは?という哲学的な問いに向き合うことがあって。
それに答えるための科学的なアプローチに、アカデミックなマインド、まなざしを持っていたい。
アカデミックな視点を持たないと?
こうした積極的な理由もあるが、せっかくこれまで人類が何百年とトライ&エラーをして積み上げてきた知識や経験を使われていただく手はない。車輪の再発明をして喜んでいられるほど、人生は長くない。
自分で「いいことを思いついた!」と思っていたことが、本を読むと、何百年も前に先人たちがとっくに言っていた、なんてことが多々ある。笑
確かに、歴史を見たらちょっと数十年生きただけの自分が思いつくことなんて、たいしたことないなと、ちょっと謙虚になるよね。
自然を扱う上で学術的な知見や視点が必要なことは、なんとなくでも想像に難くないと思うが、あらゆる分野でも必要なことを「人文知と社会の架け橋になる」を掲げている株式会社COTENのpodcastをきいて改めて感じたのでシェアしておきます。