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「お後がよろしいようで。」という魔法の言葉

1月18日。
薄々気づいていたけれど、noteを毎日書くようになってよくわかった。
文章は書き始めることよりも、終わらせるほうが難しい

私の場合、ほとんどはテーマを決めずに書き始める。書き始めるとどんどん「書きたいこと」が湧いてきて、どんどん楽しくなってくる。
ここまではいいのです。

だけど、途中で思うのだ。
「ああ、この文章、どこに着地させればいいのだろう」
そしてダラダラ、ダラダラと収まるところを探して迷走し、時間がどんどん過ぎていく……。なんてことが多々あって、最初は「15分」程度で書くつもりがnoteにかける時間がどんどん伸びてしまっている。

さて、どうしたものか。

そんなタイミングで手に取った本から引用する。

文を書く時は、はじめに終わりを思う
あなた方は若いしモダンだから落語というのには行ったことがないでしょ。わたくしは落語というのが大好きなのよ。(中略)
ところで、落語の名手って、どこに一ばん気をつかうと思う? それはね、一ばん最初に「どう終わるか」を考えること。落ちがうまくなかったら野次が飛びます。「下がれ、下りろ」って。だから、始めに終わりを思うというのは、結局自分は何を言いたいかということなんです。

『あなたに今できること』犬養道子、P24

落語つながりで、もう一つ。

落語家さんがよく、高座を降りるときに使う「お後がよろしいようで」という言葉は「(寄席などで)次の演者さんの用意ができたようだから、私はここら辺で失礼してバトンタッチしますね」という意味のこと。
なんと、話にオチがついていなくても、この一言でその場を切り上げて、次の演者さんにバトンタッチすることもあるらしい。

この「場をつなぐ人だ」という感覚、すごくいいなと思う。
私がオチをつけなくてもいい。私は主役である必要もなく「次」へとつなぐ人であればいい。

「今日、書きたいことはこれ!」と事前に決めたことをサクッと書き切るでもいいだろうし、書いているうちに話が広がってしまったとしても「次」の何かの準備ができたら(仕事とか、メールとか、話しかける声がやってきたら)スパッと、この場を去るのもいいかもしれない。

そんな江戸っ子の粋を、少しでも取り入れられるといいな。

そんなわけで、今日もお後がよろしいようで。

(五代目 柳家小さんの「粗忽長屋」が大好きです)

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