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書くこと、編集すること、祈ること。

私は何が書きたいだろうか。
何を書けばいいだろうか。
それを知りたくて、今、キーボードに指を滑らせている。

通常モードの「考える私」の働きをゆるめて、
ちょっと意識をぼんやりとさせる。
ついでに、視界もぼんやりとさせて、PCの画面だけを見るといよりも、周囲の風景へと視野を広げてみる。

ちなみに、今は飛行機のなかにいるので、窓の外に広がる雲が目の端っこに捉えられるくらいに、ぼんやりとした意識で、PCの画面に向き合っている。

ついでに、キーボードを叩き続ける私の背後にも、意識を向けてみる。

そんなことに気を留めつつ、
キーボードに指を置き、動かし続けている。

今、考えていることや、感じていること。
ああでもない、こうでもないと、
ただただ駄文を書き殴るかのように。

誤字脱字を気にすることなく、
文法なんてもってのほか。

私の指が書きたがっていることは何だろうか?

と、自分の指に問いかけるようにしながら。

何を書いてもいい。そこに正解も間違いもない。
ただ指が動くのに任せて、指が打ち出す文字を、私はぼんやりと眺めている。

そうやって続けていくと、
急に輪郭がくっきりとしたメッセージが映し出されることがある。

文字通りの意味で、
それまでは駄文が書き殴られていたところに、
メッセージが立ち現れてくるかのように。

それは、私の指が書いたものではあるけれど、
私の意志が生み出したものではない。
私の指が、私の意志を超えたところで生み出した「何か」。
なぜかそんな感覚がある。

そして、不思議と
「ああ、こういうことが書きたかったのか」
と、妙に腑に落ちる。

ここまでくると「書くこと」はもうほぼおしまい。
あとは、それを「編集」して、完成へと向かっていくだけだ。

*    * *

私は「書くこと」は「ご神事」や「祈り」に近い営みだと思っている。

「自分」をいったん傍において、
自分以外の「何か」や「誰か」のために、
自分を差し出すように、祈る。

祝詞を唱えたり、祈りの歌を歌ったり。
舞いや音楽、絵、書なんかもそうかもしれないけれど、
「私」を通じて、今、この世界に現れ出ようとしている「何か」にただ耳を傾けて、身体を通じて、それを顕現させていく

「書く」ときに起きているのは、こういう感覚なのではないだろうか。

かつて、神のお告げを人々の知らせる「ご神託」や、巫女による「口寄せ」が今より当たり前だった時代があったけれど、「言葉」は、元々、自分を超えたところからくるものを受け取り、誰かと分かち合うための術だったような気がしてならない。

そして「書くこと」もまた、同じように生まれた営みなんじゃないだろうか。(もちろん他の用途もあるのはわかっているけれど)

だとしたら、書くときに「思考」は邪魔になる。

よくアドバイスされるであろう
「しっかり考えて書きなさい」
なんて嘘っぱちなのだ。

私は、単なる「通り道」なのだから、
私を通り抜けようとしている「何か」が、
滞りなく、この世界に生まれ出ていけるように、

邪魔することなく、ただそれを眺めている。

思考をゆるめて、自らを明け渡し、手を動かしていく。
どこに向かうかはわからないけれど、ただただ手を動かしていく。

有名なセリフ
「Don’t think, feel.(考えるな、感じろ)」
ではなく
「Don’t think, surrender your fingers.(考えるな、指に委ねろ)」
ではないだろうか。

そうして何かを形作っていくのが
「0」から「1」を生み出す「書く」という営みなのではないだろうか。

*    * *

だけど、いくら素晴らしい「書く」が行われたとしても、
それをそのまま世に出すのは難しいだろう。

たぶん誤字脱字だらけだろうし、文法だって滅茶苦茶だ。
自分で読み返してみても意味不明……なんてこともあるだろう。

そんな時にこそ「編集」が役に立つ。

「書くこと」がご神事のようなものだとしたら、
編集は仏教的なものじゃないだろうかと思っている。

ご神事によって託された「何か」を分かち合うために、慈悲の心から、必要としている方に届くように労を惜しまずに工夫を重ねていく

それが「編集」に根本ではないだろうか。

実際に、ブッダは、人によって語り方を変えていたという。

「メッセージ」は同じものだったとしても、相手が違えば伝え方は何通りもあるはずだ。

自分自身に託された大切な「何か」を、目の前の人に合わせてチューニングして、届けていく。それこそが「方便」であり、その方便の技術こそが、現代でいう「編集」ではないだろうか。

*    * *

「0」 から「1」を生み出す「書く」と、
「1」を一人ひとりに届けつづけていく「編集」

まるで「神仏習合」のように、
それぞれが、それぞれの役割を果たしていく時に、
「奇跡」や「救い」が生まれるのではないだろうか。

言葉は、誰かにとっての救いになり得る。

だからこそ「書くこと」も「編集」も「祈り」なのだ。

*    * *

「祈り」として書く、「祈り」として編集する。

そんな感覚をもって仕事に取り組むプロフェッショナルでありたい。

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柏原里美|編集者・ファシリテーター
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