分別過ぐれば愚に返る
考えすぎると、かえって迷って失敗する。(日本)
「分別」とは、
世の中の道理を理解し、
わきまえることを指します。
「愚に返る」とは
年をとったり、
分別を失ったりして
愚かになる。
ばかになる。
ということ。
つまり、
最も理にかなった
行動をしっかり考える
ということ。
しかし、
考えすぎると
結局つまらない
結論に至ってしまう
こともあるので、
愚に返る=ばかになれ。
適度に、ほどほどに
考えた後に
実行に移すことが
大切と説きます。
類語として以下の言葉があります。
↓↓↓↓↓
・過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし
行き過ぎているのは、道理として、届いていないのと同じで、中庸(ちゅうよう)の徳をえていなくて良くない。(孔子)
孔子(前551~前479)の教えで、
『論語』先進篇に見えることば。
門人の子貢が孔子に、
同じ門人の「子張」と「子夏」と、
どちらが勝っておりましょうか?
とその優劣を問うたとき、
孔子は、
「子張は度が過ぎるし、子夏は及ばないよ」
と答えた。
それで子貢は、
「では子張が勝っているのですか?」
と重ねて問うたところ、
孔子は
「過ぎているのは、ちょうど及ばないのと同じで、
どちらも同じく中庸を失ったものだよ」
と答えたという。
孔子がうやまって
大切にしていることは
「中庸(ちゅうよう)」 の
概念が最も重要な
位置を占めていた。
『論語』雍也篇(ようやへん)にも、
「中庸の徳たるや、それ至れるかな(最上至極のもの)」
と記しています。
【中庸(ちゅうよう)】とは
それは単なる
追求ではなく、
論語にあるように
最高の徳を体現した
ものであった。
この徳は、
人間の卓越性の
頂点を包含しており、
孔子自身も
深く評価していた。
孔子の弟子たちの
逸話を掘り下げると、
この徳の本質が
見えてくる。
例えば、
【子張】は、
孔子より48歳も年下にもかかわらず、
立派な積極性を発揮した。
一方、【子夏】は
孔子よりも44歳年下で、
謙虚で威厳のある
精神を見せていた。
問うた【子貢】は、
孔子の31歳年下で、
彼らの心を
見守り育てた。
このことからも、
こうした弟子たちの
精神の成長は、
孔子の深い思いやりと
知恵の証となったのである。
孔子は哲学者としてだけでなく、
教育者として登場し、
道徳的・知的な徳の頂点である
中庸の達成に向けて
弟子たちを指導しました。
これらの若い学生たちとの交流は、
彼の教えの時代を超えた関連性と、
個人的・社会的な卓越性を追求する
中庸の永続的な意義を強調しています。