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BLの歴史から見る「ふまじめな」創作と生存戦略。

 僕が育った家には本棚がなかった。
 父は一切の本を読まない人だったし、母は子育ての間は本を読まないと決めていたらしい。とはいえ、母は漫画や小説が好きな人で、図書館や本屋にはよく連れて行ってくれた。
 僕が育った広島にはマンガ図書館があって、そこで多くの漫画を読んだし、近所に住んでいる年上のお兄さんから漫画を借りたりしていた。

 当時好きだったのは「NARUTO -ナルト-」や「タッチ」「ラブひな」「YAIBA」などだった。
 書いて懐かしい! となるのは「YAIBA」で、青山剛昌が「名探偵コナン」を書く前の作品で、ザ・少年漫画な軽快なテンポ感が好きだった。
 ラストで日本列島そのものとサムライである主人公が戦うというトンデモ展開になるのとか、まじ最高だった。

 と今回懐かしい漫画の話がしたい訳ではなく、BLについて書いてみたいので、お付き合い頂ければ幸いです。
 僕が初めてBLなるものに触れたのは、ある本屋の雑誌コーナーに並んでいるもので、「NARUTO -ナルト-」のキャラクターが表紙でぱらぱらめくってみると、カカシ先生とイルカ先生がキスをしていた。

 子供の直感として、これは僕が読んじゃダメなヤツだと思って、深くは読まなかったのだけれど、頭にこびりついたのはカカシ先生の口ってああなっているんだ、ということだった。
NARUTO -ナルト-」を知っている人なら分かるけれど、カカシ先生って口元が隠れているキャラで、子供心ながらにどうなっているんだろ?と思っていた。

 そんなカカシ先生の謎の口元が本屋に並んでいる雑誌の中では易々と描かれている(しかも、イルカ先生とキスしてる)というのは、衝撃だった。
 僕はポケモンの絵とかを模写したりする、お絵かきが好きな少年で、その中で思い通りに描けなくて、よく分からない新種のポケモンが出来上がったりしていた。
 だから、絵はある意味で自由で、カカシ先生の口元を想像して誰かが描くことは納得できる。

 ただ、僕が驚いたのは商業の雑誌で、それが読めてしまうということだった。
 ナルトの作者は怒らないのかな? もしくは、公認なのかなと当時の僕は素朴に思っていた。

 いつしか、それが二次創作というもので、BLというジャンルで、作者の意思とか無視して描かれているものだと理解した。
 丁度、的確に二次創作について書かれた文章が東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」にあったので引用したい。

この二次創作は、本書の文脈につなげれば、まさに「観光」的な性格をもつと考えることができる。というのも、それは、特定の作品について、その一部を抜き出し、原作者が期待した読みかたとはまったく別の読みかたを、しかも原作者に対してなんの責任を負わずに「ふまじめに」生みだす働きのことだからである。それは、観光客が、観光地に来て、住民が期待した楽しみかたとはまったく別のかたちで楽しみ、一方的に満足して帰るありかたに構造的に似ている。

 つまり、僕はカカシ先生の口元という原作者が描いていないものを「ふまじめに」描いてしまうことに驚いたのだった。
 それはカカシ先生とイルカ先生がキスしていることよりも、驚きだった。多分、それは二人がキスすることは嘘(創作)ってすぐに分かるけど、カカシ先生の口元は描かれていないだけで顔の構造上はあるものだから、もしかすると、本当にそういう顔立ちなのかも知れない、と思わされてしまった。

 ちなみに僕は、少し前まで郷倉四季名義で倉木さとしという友人の世界観で小説を書いていた。これは二次創作ではなく、隙間産業と僕は勝手に呼んでいて、倉木さとしが描いた小説の隙間で起こっていそうなことを書く、というコンセプトだった。
 そういう意味で「まじめ」な創作だったと言えて、常に倉木さんの世界観にそぐうか、そぐわないかという物差しで自作を考えていたような気がする。

 僕はもう郷倉四季とは名乗らないので、倉木さとし作品の隙間産業もしないのだけれど、「まじめ」な創作だったが故に、いらぬキャラクターや事件を他人様の作品内に残してしまったことは申し訳ないと思っている。
 倉木さとしには僕が書いたものなんて、本当に無視して(あるいは好きなものを取り入れて)作品を書いていってほしい。

 なんて言いつつ、倉木さとしは今、「アイドルマスター」なる作品の二次創作を書いている。
 どうして二次創作なんだろう? と首を傾げたけれど、倉木さとしには倉木さとしの必然があって、それに取り組んでいる。
 東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」的に言えば、「観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して帰っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。」ことが彼には必要なのだろう。
 創作を続けていく道筋には色んな道がある。

 さて、話をBLに戻して最近、溝口彰子の「BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす」を読んでいる。
 本書ではBL史を三期に分けて考えており、その始まりを「明治の文豪・森鴎外の娘である森茉莉(一九〇三‐一九八七)が一九六一年、五八歳の時に発表した短編小説『恋人たちの森』」としている。

『恋人たちの森』は、フランス貴族の父親と日本の外交官の娘を母親に持つ資産家で、東大で教鞭をとる作家である三〇代後半の「美丈夫」ギドウ(義童)と、私大の仏文科を一年で中退し菓子工場で働く美貌の若者パウロ(本名・神谷啓里)の悲劇的恋愛が耽美的に描かれた作品だ。

 BL進化論の中で細かく『恋人たちの森』が如何にBLなのかが語れて行くのだけれど、僕が面白いと思ったのは溝口彰子が引用している森茉莉のエッセイを踏まえた以下の内容だった。

「美男キャラクターは自分の代理人」とは森茉莉は書いていないが、「恍惚」「夢の花園にはいって」といった表現が示す彼女の深い快楽からは、夢の花園で男性カップルを眺めながら、彼らに同一化もしていることが察せられる。

 つまり、BLの快楽は自分のいない「花園で男性カップルを眺め」てから、「彼らに同一化もしている」という点で、この反復(もしくは、何層にも重ねられた視点)なのだろう。

 この自分がいない、という不在の地点から一方的に同一化して共感する、というプロセスは「(二次創作的な)ふまじめ」なものに思える。
 本書では更に以下のような指摘もある。

中島梓の指摘「BLにおける男同士の性愛は、「本当はホモとも同性愛とも無関係である」。すでに明らかなように、彼らは前近代のソドマイトや男色家ですらなく、読者であるノンケ女性が、現実にはありえない「奇跡の恋愛」や「究極のカップル神話」のファンタジーを仮託する物語の登場人物でしかない。

 つまり、BLを同性愛者たちの苦悩みたいな「まじめ」な視点で読み解こうとすること自体に、実はあまり意味がないのかも知れない。
 それでもあえて、マジレスするように、同性愛者に関する差別について明快でテクニカルに指摘している「沈黙のほろびる時」という多和田葉子のエッセイから一部引用したい。

 結婚式などは、男性を欲する女性と女性を欲する男性が一緒になるなまなましい儀式なのに、性的イメージが驚くほど不在である。ところが同性カップルと聞くと、すぐに性的側面だけを思い浮かべ、パートナーシップという観点から考えられない人がいる。
 (中略)
 なぜそこまで性を汚いものだと思わなければならないのか理解できない。暴力は汚いけれど、性は別にきれいでも汚くもない。もしかしたら性から暴力を取り除きたくない人たちがいるのかもしれない。

 BLは逆に性を「奇跡の恋愛」や「究極のカップル神話」という形式に落とし込んで、綺麗なものにしようとし過ぎている。
 多和田葉子の言う通り、「性は別にきれいでも汚くもない。」というフラットな視点のBLや二次創作はあるのだろうか。

 いや、そういうフラットな視点がBLや二次創作に必要なのか、という問題点はある。
 BL史の始まりとして指摘された森茉莉がイルメラ・日地谷=キルシュネライト編の『〈女流〉放談-昭和を生きた女性作家たち』という本で以下のような言及が成されていた。

 森茉莉は、毎日を自分だけの世界の中ですごしているようで、「夢のようなその世界こそが、自分にとっての真の現実だ」と彼女自身も認めていた。彼女は「現実世界における〈美〉はすぐに消滅してしまって保つことができない」と私に洩らしたのだった。
 彼女は「自分は今でも十七歳」と考えていて、「むしろ若者に強く惹かれる」と語った。年齢を重ねた一人暮らしの女性なら感じているはずの日常的な困難を肯定的に解釈し直して、日々を生きているかのようだった。

 この最高のヲタク感よ!
 森茉莉のように「夢のようなその世界こそが、自分にとっての真の現実だ」までいかなくとも、BLや二次創作の「ふまじめ」な「現実にはありえない」「ファンタジーを仮託する物語」に自らの「日常的な困難を肯定的に解釈し直して、日々を生きてい」く手段になるのであれば、そういう生存戦略は絶対的にアリだ。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。