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月に一度の往復書簡集2024【倉木さとし⇒郷倉四季】4回目 小説の影響力と「シティーハンター」をどう見たか? または、年齢について。

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【自己紹介】
郷倉四季
 自動車学校に入所しました。三十三歳で免許です。頑張ります。ちなみに、妻の結婚相手の条件に「車の免許」がありました。よく無免許の僕と結婚してくれたものです。丁度これを書いている日に友人が第二子を出産されました。僕も周りも変わっていくなぁと思う日々です。

倉木さとし
 普通自動車免許は高校生のときにとりました。一発免停をくらうこともありましたが、いまはゴールド免許です。防火管理者の資格も持っていますが、修了証が財布になければ捨てたかもしれない。僕の財布の中は、キャッシュカードが割れて使えなくなる魔境だったりする。


【郷倉四季】回答4 「小説が生身に影響を受けることはあるか。また、それは健全か」


 最近、電車の中で文章を書く関係で、Chromebookを開いたら準備運動を兼ねて頭の中のものを吐き出す時間を作っています。基本的に朝か昨日の夜に起こったこと、そこで僕が何を思ったのかを書き、余裕があれば最近の考えごとに移行します。
 考えごとは一晩寝かせたおかげでスムーズに進むことが多いです。それでも答えがでない場合は別の問題が絡まっていることが多いので、細かく分けてみます。すると、だいたい上手くいきます。

 個人的な感慨ですが、自分の出来事と考えごとを書き出すと、むやみに悩まなくて済むようになりました。
 文字化(外部化)することで、自分の気持ちや考えを可視化できるようになるのが重要だったのでしょう。
 そうした外部化によって僕は小説においても、自分の乱された感情を小説世界に持ち込まずに済むようになりました。
 おかげで僕の精神はここ数ヶ月、大変穏やかです。気持ちや考えの外部化によって僕は僕のメンタルコントロールの方法を掴んだ気がしています。

 考えてみれば当たり前ですが、小説を書き上げるのには長い時間が必要になります。
 何週間、何ヶ月もの間、人間は同じ心理状況でいられるわけではありません。ただ、だからと言ってイライラしているから、イライラしたシーンを書くわけにもいきません。
 小説内には小説内の感情の流れがあり、楽しいことが起こるシーンでは目一杯楽しいシーンを書く必要があります。日常でまったく楽しいことがなかったとしても、そうしなければならないわけです。
 でなければ、読者を戸惑わせる要因になります。当たり前ですが、読者が読む時に作者が書いていた時の感情は関係がありません。

 ただし、先にも書きましたが小説内には感情の流れがあります。これはプロットや書き出しの時点で決めることができます。
 例えば自作で恐縮ですが、「あの海に落ちた月に触れる」という小説があります。これは「彼女が十人いる男が最初に連絡するのは十番目の女だ」と始まります。この暴論とも言える話を否定する友人を前に、一番好きな女の子に連絡しないことが大事な瞬間もあるんじゃないかと考えるのが主人公です。
 この小説が面白いかどうかは置いておいて、この戸惑いの感情が最後までアップダウンはしつつ、一定の線として持続した作品だったので僕はこの作品を気に入っています。

 小説は人間が読むものであり人間が書くものである以上、そこに潜む感情の流れを追っていく経験でもあります。
 つまり、最初に設定された感情があり、本編を書いている間、この感情を常に背負って書いていく必要があります。小説家のインタビューを読むと、過去の自作に対し「今はもう、あの小説は書けませんね」という類のことを言ってることがあります。
 これはその時の感情は当時の自分が抱えていたもので、過ぎ去った今からでは再現不可能な感情だったということなのでしょう。
 感情には再現不可能なものと、常に沸き起こる再現可能なものの二つがあるのかも知れません。

 倉木さんのご質問の「小説が生身に影響を受けることはあるか。また、それは健全か」とのことですが、小説に内在する感情が「なにか」に寄るのではないかと思います。
 僕は倉木さんを知っているからというのもありますし、今書かれている小説の始まりの感情がどういう経験から生み出されたかを一応把握しています。
 だから、その環状が起因となって熱を出すのも、変な言い方になりますが納得ができました。ただ、それ以前の内容で大変忙しい日々を過ごされているようでしたので、日々の疲労の蓄積があったのではないかとも思います。ご自愛ください。

 僕自身がそういう経験があるかについて考えてみます。
 倉木さんの想定とは異なるかも知れませんが、僕は人の喋り方にすぐ影響を受ける人間です。オードリーのオールナイトニッポンにハマっていた頃は若林の喋り方になっていました。
 そのような性質のせいか、ハマると夢の中や脳内の声がその人になることがあります。
 僕はここ三ヶ月ほど「鹿島茂のN'importe quoi!」という講座を聞いています。
 月2200円で仏文学者の4つの講座(2つは完結済み)が聴き放題なのですから大変お得です。分からないところがあれば聞き直すことも可能ですし、たまに鹿島茂と交流のある方との対談もおこなわれます。こちらは期間が設けられており、今は聞けませんが楠木建との対談は勉強になる上に面白かったので、4回聞きました。
 その結果、一時期の夢の中の声が楠木健になっていました。どんだけ影響受けてんだよ、と起きて自分にツッコミを入れました。

 正直、僕は学校の勉強がまったく楽しいと思えなかった人間です。けれど、大人になって、純粋に自分の知的好奇心のみで知識を積み重ねていける今、勉強はこんなに楽しいものなんだなと思っています。
 とはいえ、これは自分の中にある知的好奇心を満たすためだけの学びなので、趣味の範疇なのですが。

 話が逸れました。
 僕が言いたかったことは、僕は今ハマっているものに影響を受けやすい人間だと言うことです。
 昔、小説の専門学校の先生に「君はスポンジのように何でも吸収するね」と言われたことがあります。僕はそれ以来、常に柔軟で何でも吸収できる余白を持った状態に自分をするよう心がけています。
 そういう意味で僕は小説を含む多くのカルチャーから影響を常に受けている人間だと言うことはできそうですが、熱を出すとか日常生活に影響が及ぶレベルのことはありません。ある意味、健全な範囲に留まっています。
 では、自分が書いている小説の影響はどうか? についても、同様のことが言える気がします。ただ、小説を書くことそのものはしんどい作業です。そのしんどさに引っ張られて、昼夜逆転し引きこもって生活が破綻していた時期はあったように思います。

 どんなことでも健全な範囲と不健全な範囲はあって、薬のように大量に摂取すれば健康を害する場合もある。つまり、小説からの影響も「用法用量を守って正しくお使いください」ということで良いのではないでしょうか。
 とはいえ、小説を含むカルチャーからの影響を受ける量の範囲は操作可能なのか、という問いはあると思います。

 昔、何かで読んだ記憶なのですが、とある小説家の恋人がプルーストの「失われた時を求めて」をどんどん読み進めようとしていて、「ゆっくり読みなさい」と小説家が言ったというエピソードが紹介されていました。
 ある種の小説や芸術は時間をかけて、ゆっくり摂取しなければ、その良さが分からなかったり、逆に強く影響を受けすぎてしまう場合があるのでしょう。
 また、それは小説を書く時にも同様のことが言えるように思います。江國香織や村上春樹の創作に関するエッセイを読むと、一日に書く枚数は決めていると書いていたと記憶しています。自作でも(あるいは自作だからこそ?)、用法用量を守って小説世界と関わっているのかも知れません。

 倉木さんが想定する回答になっているか分かりませんが、今回はこれくらいで終わりたいと思います。

【郷倉四季】質問5 「シティーハンター」をどう見たか? また、二十代に書いた作品に四十代で戻ることについて。


 結婚して名字が変わってしたいことの一つに「サインを書いてもらう時の名前」がありました。
 僕はサイン本集めが趣味になっているところがあって、実際に作家さんに書いてもらう時は本名を入れてもらっていました。今回入籍したことで名字が変わり、サイン本で名前を書いてもらう時は新しい名前になります。
 いつか自分が集めたサイン本を振り返る時、名字の変化で感じるものはあるだろうなと思っていました。

 そんな折に森見登美彦のトークショーが大阪でおこなわれると知り、参加してきました。
 森見登美彦と言えば、僕たちが専門学校に通っていた2010年代前半頃から話題になった作家です。学校の先生も「夜は短し歩けよ乙女」を読んでいたと記憶しています。
 クセのある文体と京都を舞台にしたコミカルな内容。
 誰でも楽しめる作家というのは大袈裟かも知れませんが、親しみやすい非常に良い作家さんです。
 ちなみに、うちの妻も森見登美彦は好きです。

 さて、そんな森見登美彦のトークショーは新刊の「シャーロック・ホームズの凱旋」が中心になるだろうと思い、イベントの数日前に新刊を買い求めました。
 今回はサインを書いてもらうこと、後に振り返った時に懐かしむことが一つ目的となっています。であるなら、既刊本ではなく、新刊の方がその時期を思い返すフックとして作用すると僕は考えました。
 この話を職場の後輩にしたところ「なんか小賢しく計算しているところが嫌っす」と言われました。

 僕の下心が反映されたのかトークショーの当日は雨でした。
 トークの中心はやはり新刊の「シャーロック・ホームズの凱旋」についてでした。この「シャーロック・ホームズの凱旋」は森見登美彦がスランプに陥ったホームズを描く、という内容です。
 森見登美彦らしい謎の理論を振り回して、絶対に謎を解かないぞと躍起になっているホームズは微笑ましく、けれど、どこか痛々しくもあります。
 そんな新刊を森見登美彦が書いた理由は「自分もずっとスランプだから」というものでした。驚くことに森見登美彦は2011年以降ずっとスランプだというんです。
ペンギン・ハイウェイ」がスランプに入らない最後の作品とのことです。
 それ以降はずっと書ききれない不完全燃焼感があり、「シャーロック・ホームズの凱旋」は最後まで書いて自分がしたかったことの周囲をなぞって本当に書きたいことがドーナッツの穴のようにぽっかり浮かび上がってきた作品だと言っていました。
 森見登美彦いわく、「ペンギン・ハイウェイ」以前には中心に妄想の自分がいて、最後には自分に行き着く物語になっていた。けれど、スランプになってからは自分に行き着けなくなってしまった、とのこと。

 記憶の限りで書いていますので、細かい部分は違うかも知れませんが、おおよはそのようなことをおっしゃっていました。
 ここで僕が気になったのは森見登美彦の年齢です。調べたところ、現在は45歳。「ペンギン・ハイウェイ」を出版したのは2010年の31歳の時。

 森見登美彦はイベント中、繰り返し自分の作品を「妄想の世界」と表現していました。この妄想の世界を森見登美彦は30代から、上手く使うことができずにいます。
 20代と30代は同じ時間を生きているようで、やはりまったく違った時間軸にいるような感覚が今の僕にはあります。
 それは僕が結婚したことも関係すると思います。ただ、最近考えるんですが、20代の頃に僕が結婚していたとしたら、今のような感覚で日々を過ごせていなかったはずです。
 明確に20代と30代で生きる時間軸は異なります。
 少なくとも大人になろうと日々過ごす人間にとっては。
 
 村上春樹が「小説家の賞味期限」は十年で、それを過ぎれば「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」に転換することが求められ、更に「鉈の切れ味」を「斧の切れ味」へと「より大ぶりで永続的な資質」への変換が求められると書いています。
 僕はこの賞味期限の例えを、青春の賞味期限や20代の賞味期限と表しても良いと思うんです。20代の若い時の感覚(切れ味)で物事に接していると、切れなくなってくるものが必ずあるんでしょう。だから、大人の切れ味とか、30代の切れ味に変換する必要があるのだと思います。

 森見登美彦は自らをスランプだと言うことで、「剃刀の切れ味」を求め続けているようにも見えます。ただ、彼はスランプだと言いつつ、その中で7作の長編小説を書いています。
 実際、「シャーロック・ホームズの凱旋」はめちゃくちゃ面白かったです。
 スランプだと言うことが森見登美彦にとっての「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」への転換だったと考えることもできそうです。そういう点で言えば、森見登美彦がスランプを超えたと言う時期が「鉈の切れ味」を「斧の切れ味」へと変換される時なのかも知れません。

 さて。
 今回、まず僕が言いたかったのは年齢によって書ける物語は異なってくるのだろうということです。その上で、Netflixの「シティーハンター」の話に移りたいと思います。
 倉木さんは「シティーハンター」の熱心なファンだと記憶しています。
 Netflixの「シティーハンター」は評判が良いですが、倉木さんはどう見られたのか伺ってみたいなと思います。

 また、森見登美彦の話と絡めて作者の北条司が「シティーハンター」の連載を始めたのが26歳だとウィキペディアにありました。
「シティーハンター」もまた20代に描かれた作品です。
 ただ、僕の記憶が正しければ、シティーハンターはその後にエンジェルハートとして青年誌で再度(続編? パラレルワールド?)連載されています。ウィキペディアで調べると2001年に連載が開始されていますので、北条司が42歳の時です。これは20代に書いた作品世界に40代で戻ったと考えることができます。

 森見登美彦が今、20代に書いた作品に挑戦した時、どのような作品が生まれるのかと考えるとワクワクします。
 ただ、それは間違いなく今の森見登美彦が失ってしまったものを浮き彫りにさせてしまう挑戦でもあります。新作を生み出し続ける方が良いのか、過去の作品の続編やリメイクをするのが良いのか。
 それは作家によって異なると思います。

 倉木さんも30代後半です。そろそろ40代を意識しだす頃かと思いますが、倉木さんは40歳になった時、新作を書いていたいですか? それとも過去の作品の続編やリメイクに挑戦してみたいですか?

【倉木さとし】回答5+質問6 リメイクするのに参考になりそうな作品。また、ディズニーについて。


 倉木なんてもんは、原作漫画の完全版を本棚に、文庫版はトイレに置いていて、アニメのDVDBOXを持っていて、ドラマCDも揃えていて、コルトパイソン357マグナムのガスガンを所有している程度の「シティーハンター」ファンです。
 Netflixの「シティーハンター」も配信されてすぐに視聴しました。個人的に満足のいく出来でした。主人公の冴羽を演じられた鈴木亮平の他作品にも興味が出るほどに、ちゃんと冴羽が実写化されていて感動しましたね。とくに、コルトパイソン357マグナムの扱い方が、アニメや漫画で見たことがあるぞ、と原作ファンだからこそ伝わってくるこだわりがありました。ぜひとも続編がみたい!
 おさえるべきストーリーラインを原作どおりになぞりつつ、古い原作漫画を現代に蘇らせるにあたって、細かい部分を令和的に改変した点も物創りの観点からも参考になりました。
 コンプライアンス的にも、Netflixで下ネタはここまでは許されるのかというのが、よくわかりました。原作にあったような、座った状態で自らのもっこりを顎置きにしたり、バズーカでも割れない防弾ガラスをもっこりで破壊するみたいなものは、さすがに映像化は無理だったようです。そもそも、アニメ版でもカットされていたか。

 シティーハンターはアニメ化にあたって、当時の平成初期の時代においても「もっこり」をどうするかが一つの問題点だったそうです。冴羽を声で演じられたを神谷明の実力でいやらしくなくなってことなきを得たのですが、さすがに実写版では生々しさがあるためアニメに比べてずいぶんと抑えられていたように思います。でも、ギリギリまで攻めてくれた感はあるので、やはり鈴木亮平はすごいですね。というか、おちゃらけて女好きな一面がなければ、冴羽ではないので、絶対に必要な要素なのです。そういった欠点がなければ、冴羽というキャラクターはカッコよすぎる。いや、ギャップがあるから更にかっこよく見えるのか。
 昨今の人気になる男性キャラは、いかにムラムラやセクハラをおさえるかが重要視されている感があります。その結果、表でやれやれいうタイプが増えたように思います。冴羽はスケベな主人公が比較的多かった時代背景もあり、表でムラムラさせながら、裏ではヒロイン一筋な一面がある。深く知れば知るほどカッコいいしかないのですが、忙しい世代にはそこまで見てもらえず刺さらないのかもしれないなぁ。曲のイントロも必要なければ、サビだけきいて歌の判断をする、タイパを重視しすぎて逆に大事なものを無駄にしていなければいいのにと、倉木のようなオッサンは若者が心配になります。

 そんな冴羽を父親ポジションに置いた作品が「シティーハンター」のパラレルワールドとなる続編の「エンジェル・ハート」です。倉木の中では、トップ3に入る漫画です。「シティーハンター」よりも好きですね。ヒロインの香ではなく、冴羽に惚れて読んでいたから、パラレルワールドと言わざるおえなかったあの要素も簡単に受け入れられたのだと思います。
 語りだしたら止まらなくなりそうなので、質問に答えます。

『倉木さんも30代後半です。そろそろ40代を意識しだす頃かと思いますが、倉木さんは40歳になった時、新作を書いていたいですか? それとも過去の作品の続編やリメイクに挑戦してみたいですか?』

 郷倉くんの言葉を借りるならば、20代の作品に40代になって帰ってきた作品が「エンジェル・ハート」です。個人的には連載時、北条司がまだ40代だったことに驚きました。
「シティーハンター」の面白いフォーマットを活かしつつ「家族愛」をテーマにリメイクしたものが「エンジェル・ハート」のはず。
 そもそも「シティーハンター」を復活させるだけでも面白いのに、40代が直面する「家族愛」というテーマを上乗せして、さらには世界観も時代に合わせてつくられたということになる。最強の作品になるのは当然やんか。カッコいいだけでなく泣けるエピソードも多いのも、構造的に考えてもうなずけるわけだ。

 色々と言語化していくうちに、過去作の続編やリメイクをする際の方法論みたいなものがみえてきたかもしれない。

 つまり、若い頃の自分が面白いと思って、当時の自分なりに苦労して書いたものに、あらたなテーマをトッピングすれば、過去作の面白い要素そのままに濃厚な作品に進化する。さらには、色々と設定を整理しつつ、それでも重要なキャラの繋がりは過去作と同じようにしておけば、パラレルワールドとしても成り立つのだろう。
 さらにさらに思うのは、かつての自分が面白いと思って書いたものというのは、いまの自分では書けなくなっている要素がある場合も多い。十代の頃の作品なんかは、単純に若くて大人キャラを書くのも下手くそだったが、逆にそれがそいつらから見た大人の一面という風に開き直ってしまえばいい。そういう要素は残したほうが面白いものがうまれそうだ。
 いまの倉木は、結婚し、子供も育てている。これさえあれば他はいらないといった感じの、若者の無敵感が薄れてしまった。全部捨てて、これだけでいいっていう危うさは過去作に残る要素としてうまく組み合わせしつつ、でも無敵ではないにせよ、家族のおかげで最強になれるという一面をいまならば付け加えられそうだ。過去と今が合わされば、一人で多角的な視点が描けそうという話。
 他にも過去作をいじくりまわすメリットとして、執筆までの準備期間を短縮できそうだ。世界観を一からつくるのではなく、新たに増やすことで嘘のない世界として層がぶあつくなりそうではないか。

 そもそも、過去作があるというのは、以前に掲載した自己紹介で我々が語ったように何十年もあがいてきたものにだけ許された特権ではないか。
 使わないという手はないでしょう。それこそ、過去があるから今があると、失敗や遠回りさえも肯定し続けている倉木ならば、使うべきだ。
 というわけで、回答としてはこれからも過去作のリメイクや続編がメインになっていくでしょうね。そもそも、執筆の時間をとれるかどうかも怪しい現状ですが。三幕構成を参考にして、長い過去作を短くまとめるぐらいなら可能かなあ。ちなみに、三幕構成に関する詳しい内容は、またどこかのタイミングで。

 最後に。リメイクするにあたって、テーマを追加するというのは作例としては具体的とはいえないので、参考になりそうな二例を挙げようと思う。

 一つ目は『THE FIRST SLAM DUNK』。
 主人公たちのチーム湘北が、絶対王者と呼ばれる山王をインターハイで激戦の末に打ち破る物語です。試合結果に関して、むちゃくちゃネタバレを書いてますが、原作者の井上雄彦が20代の時に山王戦は描かれました。『THE FIRST SLAM DUNK』が劇場公開された2022年の段階で、井上雄彦は50代です。この長い間、いままでネタバレを回避してきた人たちは、原作を読むことも映画も見る気もなかった人たちばかりのはずだから、これでネタバレ食らったとか言うやつは、被害者ぶりたいだけだと思います。
 さて。本映画は、原作者の井上雄彦の名前が脚本と監督にもクレジットがのっており、こちらも20代の頃の作品に戻ってきたといえますね。
 二時間という尺に収めるため、試合途中に、宮城リョータの過去を描く形をとっており、Netflixのあらすじでも宮城リョータが主人公のような書かれ方をされています。
 ちなみに、宮城リョータは原作では湘北レギュラー五人の中で、もっとも過去が描かれていないキャラでした。そのため、彼の過去に関しては映画未視聴の方へのネタバレを配慮して内容は割愛します。
 注目すべきは、この誰も知らない宮城リョータの過去を描くことで、新たなスラムダンクを楽しめる構造となっている。ただでさえ、原作ファンが待ちに待った山王戦を映像化してくれているというだけでもご褒美にも関わらずだ。あのシーンとか、このシーンとか、試合内容を知っていても、やっぱり泣いてしまいましたよ。
 感動しながらも、これは作品のリメイクの際に使えるなと思った部分がある。

 過去作のストーリーを踏襲しつつ、別の登場人物を主人公にすれば、見え方が変わるだけでなく、おのずと別のテーマもくわわる。
 宮城リョータを主人公にしてくわわったテーマはなんなのかは、ネタバレをくらわずに見てもらいたいですね。

 二つ目の作品は『Little DJ 小さな恋の物語』。
 神木隆之介演じる子供が、当時は不治の病だった病気になり、入院先で出会った色んな人を通じて、死ぬその瞬間まで成長していく物語です。
 こちらは、作者にとって過去作のリメイクというのではないと思うのですが、リメイク作品をつくる際に参考になる物語の構造となっています。
 前述のとおり、当時は不治の病だったというのが重要で、現在ならば一応は薬がある病気なんです。特効薬がない当時だからこそ、タイトルになっている「リトルDJ」がきいてくる。院内放送のDJをするのが特効薬になると信じて(ある意味では騙して?)、主人公は院内放送をするという流れがあるのです。
 過去の時代背景でないと説得力がない物語というのは、存在します。
 自分たちが20代の時につくった物語でも、もしかしたら令和版にしたら無理があるものになるかも。そういった場合、リトルDJのように、プロローグとエピローグだけ、時間軸を現代にすればいい。この映画内では、主人公と同年代の入院患者だったヒロインが成長した形で登場します。彼女の成長を通じて、主人公と過ごした時間が、現在においても無関係ではないと作品を受けとったものが感じるようになるのです。

 つまり、リメイクの際に一番簡単なやり方は、物語は開き直ってそのまま(コンプラに引っかかる要素の修正は必要かも?)にしつつ、プロローグとエピローグだけ現代視点を加えること。
 こうすることで、設定や世界観を現代風にアレンジする必要なく、いまとの親和性をもたせることができるはず。

 勘違いないように断っておきますが、リトルDJは別に現代と親和性をもたせるために、プロローグとエピローグだけを現代にしたわけではないと思っています。作品づくりとして、こういうやり方も使えるぞと、勝手に倉木が感じただけです。

 最後の最後で、自分とは無関係だと思っていた物語が、現在の自分とも関わりがあるのだというオチは、ずるいほど秀逸です。

 せっかくなので「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」という洋画の紹介を最後に。
 第二次世界大戦中にイギリスの数学者がヒトラーの最強暗号の解読に挑むことで、数多くの生命を救った英雄物語です。
 天才の理解されない孤高な感じなどと見どころは随所にあります。でも、結局は昔を舞台にしてるので、ファンタジー映画をみているように、面白いけれど、自己投影してのめり込む類いのものではないのかなと、視聴を続けていました。いや、ずっと面白いのは間違いないんですよ。ただ感情移入が難しいってだけふぇ。
 で、最後のオチでこの映画を見てよかったと心底思いました。
この天才数学者が、暗号解読に使った巨大な機械こそが、現在のパソコンの基礎となっている
 みたいなナレーションか文章か忘れたけど表示されます。字幕映画でみてたから、字幕だったから文章という印象なのかも。記憶曖昧で申し訳ない。
 とにもかくにも配信サイトを利用してパソコンで視聴していた倉木は震えました。
 パソコンで映画を視聴している以上、自分と無関係なんてありえない。

 物語におけるどんでん返しも面白いけれど、こうやって視聴者も巻き込む形ってずるいよね。呪いの映画とかでも、自分も巻き込まれるかもって思わされたらこわいもんね。

 さてさて。郷倉くんへの質問をどうするかって考えずにここまで書き進めてきました。
 返信をつくりながら、何度かちらついたものがあるので、そのことについて質問しようかな。

 THE FIRST SLAM DUNK。と打ち込む際に、候補として出てきたものがあります。
 ザ・ファースト・アベンジャー
 キャプテン・アメリカの一作目の映画のタイトルです。アベンジャーズが頭によぎったから、最後の最後でイミテーション・ゲームを語ったのかも。たしか、イミテーション・ゲームの主人公役は、アベンジャーズのドクター・ストレンジ役と同じだったはず。

 倉木は、アベンジャーズエンドゲームまでは、MCUを全てチェックしていました。ですが、エンドゲーム以降は、一番大好きなピータークィルが登場するガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3すら見ていない状態です。レンタルビデオ屋に一番くじを引きにいくだけで、レンタルしにいかないのが原因でもあります1が。
 いや、サブスクで見ることもできますね。一応、子供がもう少し大きくなったら、ディズニープラスのサブスクもはじめようかと迷っています。
 ちなみに倉木は、ジブリ映画を三十代でようやく全部視聴し終えたぐらいなので、ディズニー作品も見ていないのが多いんですよね。郷倉くんはディズニープラスに入っていると記憶しています。ディズニー作品で、これを知らずに物創りするのはもったいないみたいなものがあれば、教えてほしいですね。ちなみに、ディズニー作品の系統ならば、アベンジャーズや、魔法にかけられてとかまで拡大解釈していいので教えてもらいたい。
 サウスパークをみるために、Paramount+のサブスクをはじめようと思っている僕の気持ちが変わるなにかがあるのを期待しています。

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