ゲンロン戦記の言う「ぼくみたいじゃないやつ」からポケモンのパーティを考える。
ゲンロン戦記を読み返した時に、以下の箇所を改めて良いなと思った。
いまのぼくは、以前に比べてはるかに「孤独」です。もはや「ぼくみたいなやつ」を探していないからです。
中略
ぼくと同じように、同じ関わりかたでゲンロンをやってくれるひとはいない。けれども、だからこそゲンロンは続けることができる。これからのゲンロンは「ぼくみたいじゃないやつ」が支えていく。ぼくはそのなかでひとりで哲学を続ければいい。ひとりでいい。ひとりだからこそできる。
まるでポケモンのパーティみたいです。
ポケモンのパーティは6匹まで入れることができて、個々にタイプが割り振られています。知っている人からすれば当然の知識ですが、このタイプは全部で18種類に分れています。
そして、タイプには相性があり、効果のあるものないものもあって、ポケモンバトルに大事なものはポケモンの技とタイプの相性だ、と公式サイトにも記載されています。
また、このタイプを二つ持っている複合タイプも存在します(ひこう+ノーマルとかじめん+いわとか)。
この複合タイプによって弱点が増えたり、逆に対応できるポケモンが増えたりして、ポケモンバトルの深みを増す一因となっています。
とはいえ、タイプも二つまでしかポケモンは持っていません。対応できるタイプには限界があります(レベルを100のマックスまで上げて力技で勝つは不可能じゃないかもですけど)。
おそらく、それは人間も同じことが言えるような気がします。東浩紀の書く「ぼくみたいなやつ」はポケモンで言う同じタイプで、例えばみずタイプのポケモンは水辺に生息していて似た環境で育っているから、連帯することは容易いでしょう。
しかし、同じタイプで固まってパーティになっても、弱点となるタイプのポケモンを前にすれば負けるんですよね。
ポケモンバトル(が現実で言うと何になるかは分かりませんが)に勝ち続けるためには、万遍なく散ったタイプのポケモンが集まり、それぞれの役割を果す方が理想的です。
ゲンロン戦記的に言えば、「ぼくみたいじゃないやつ」が集まる方が良い。
と同時に、「ぼくみたいじゃないやつ」は、どんなタイプで何に弱くての強いのか、何ができるのかは互いに知っておかなければいけないんですよね。
「ぼくみたいなやつ」を探さなくなると、より「孤独」ですが、その中で「ぼくみたいじゃないやつ」を理解して、同じ方向には進む努力はしないといけない。
僕がBLを読んだりし始めて、官能小説を手に取ってみたり、女による女のためのR-18文学賞の受賞作を読んでいるのは、おそらくそういう意識があるからなんでしょう。
実際、「ぼくみたいなやつ」というか、普通に僕が生活している中では触れないようなジャンルの作品は読んでみると面白いですし、ん? と首を傾げることがあっても、文脈を調べてみると納得できて楽しめたりします。
僕はこれからも「ぼくみたいなやつ」の中に拘泥せず、あらゆるタイプの人たちの世界に触れて、僕の中にある僕が持つタイプを深めて良ければと思います。
最後に自分をポケモンに例えるなら何かを考えてみました。
好きなポケモンはニョロゾなんですよね。
とくに理由はないですけど、ニョロゾということにしときましょうかね。将来的に「ニョロボン」か「ニョロトノ」のどっちになるか分からない感じ、とかもぽいですし。
あと、デンリュウも好きなんですけど、モココがちょっと女の子っぽいんですよね。とはいえ、最近マフラーを巻いて仕事もしているので、モココもありかもです。
みなさまはポケモンで言うと自分は何だと思いますか?