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日記 2020年9月 物語としては完結していない。でも、登場人物の心境は完結している世界で。

 9月某日。

「宝石の国」を5巻まで読んだ後から、Youtubeで「宝石の国」のMADを漁る日々を過ごしていて、その中で「命に嫌われている。」という曲を知った。
 自分の中で好きな曲ができると、職場の後輩に喋ることにしていて、「命に嫌われている。」についての話題を出してみると、

「あ、カンザキイオリですね。同じ人で『あの夏が飽和する。』って曲が俺は好きです。ってか、俺の理想です。物語が想像できて、適度に想像できる部分も残されているので」

 ふむふむ。

「ほら、俺、音楽やっているじゃないですか。一回だけ『あの夏が飽和する。』っぽいバランスの歌詞が書けて、その時だけは仲間が褒めてくれたんですよね」

 その歌詞を読ませてよ、と咄嗟に言えなかった。
 ちょっと後悔。
 今度、言ってみよう。

 ということで『あの夏が飽和する。』を聴いた。
 歌いだしは以下だった。

「昨日人を殺したんだ」

 ふむ。
 そして、その人を殺したと報告してきた同級生と主人公は一緒にひと夏の旅に出かける、というのが『あの夏が飽和する。』の物語の筋だった。

 後輩いわく、この人を殺した同級生が男の子なのか、女の子なのか、分からないって部分がとくに良いんだと熱弁していた。
 実際に聴いてみると、女の子だろうなと思うけれど、決定的な部分はなかった。

 歌詞を読むと、殺した相手は「隣の席の、いつも苛めてくるアイツ。」とあるので、なんとなく男の子っぽい。
 しかし、最後に「死ぬのは私一人でいいよ」という台詞は女の子っぽい。

 絶対に外れているけれど、トランスジェンダーで悩んでいる子が、その繊細な事実を理由に苛めてくる隣の席のクラスメイトを殺してしまって、それに主人公の「僕」が連れ添う、という曲なのかな? と思った。
 であるなら、ラストの

 誰も何も悪くないよ。
 君は何も悪くはないから
 もういいよ。
 投げ出してしまおう。
 
 そう言って欲しかったんだろう?なあ?

 は結構いろんな意味が含まれる。
 トランスジェンダーに生まれることは「何も悪くないから」「投げ出してしまおう」「そう言って欲しかったんだろう?」と言っている以上、主人公の「僕」は彼女が最も求めていた言葉を最後まで伝えることができなかったのだろう。


 9月某日

 最近、仕事の合間の休憩時間などに阿部和重の『ブラック・チェンバー・ミュージック』を読んでいる。阿部和重のオフシャルサイトで読めるようになっていて、現在も更新されている。
 まだ完結されておらず、連載中だ。実際には毎日新聞で連載されていて、それがサイトでも無料公開されている。
 今も(1)から読むことができる。

 主人公は二年前に初監督映画の公開を間近にひかえたタイミングで逮捕され、十数年ほど積んできたキャリアをみずからふいにし、多額の借金を抱えて、執行猶予期間中の前科もちの男。
 そんな男のもとに新潟のヤクザが尋ねてきて、アルフレッド・ヒッチコックの映画評論のコピーを渡され、それが掲載されていた雑誌を探して来い、と言われてしまう。

 話としては、そのアルフレッド・ヒッチコックの映画評論が掲載されている雑誌を探すものなのだが、その雑誌はどうも北朝鮮にとって重要な意味があると示唆されている。
 主人公が雑誌探しをしている横で、史上初となる米朝首脳会談がおこなわれていて、『ブラック・チェンバー・ミュージック』がアメリカと北朝鮮の政治的な内容が中核にあるのが分かる。

 そう書くと、少しややこしい話のようにも思えるけれど、阿部和重は伊坂幸太郎と共作した「キャプテン・サンダーボルト」の後からインタビューなどで、エンタメ的な書き方を自分なりに意識する意味のことを答えていて、文体もキャラの掛け合いもポップで読みやすくなっている。

 その為、部屋に帰ってからの入浴時などの読書は阿部和重の「ピストルズ」を読んでいる。

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 こちらは2010年の作品で、彼の長編シリーズの神町サーガの二作目にあたる。
 伊坂幸太郎が十周年の際の特集「伊坂幸太郎を作り上げた100冊」にて阿部和重の「ピストルズ」を挙げている。
 その際の紹介文は以下のようなものだった。

 今までの阿部さんの作品も好きだけど、今までの「不良の言葉で不良のことを書いているぜ」というのとは違って、『ピストルズ』は美しい言葉で不良の話を書いているところ、超能力的なものの話を、こんなに文学作品の中に組み込んでいることもおもしろかったです。

 いや、本当にその通りで、一作目の「シンセミア」はどこを読んでも不良、不良、不良で、どこもかしこもセックスか暴力で、もう止めてくれ、と思いながら面白くてページをめくっていく、という読書体験だった。

 今回の「ピストルズ」は「シンセミア」の後半で出てきた、あるキャラクターが視点人物となって、ある一族の話を聞く、というテイストで物語が展開していく。
「シンセミア」の時は物凄く現実的だったのに、突然の超能力の展開に、僕は今、どこに連れて行かれているんだろう、と不安になる。
 けれど、やっぱり読むのは止められない。

 9月某日。

 カクヨムの近況ノートを更新した。

 色々書いているのだけれど、まとめれば菅田将暉の話になった。
 あと、夜の散歩は下駄が良い、ということも書いた。
 最近は少し涼しくなったけれど、もう少しの間は散歩の際は下駄を履いて歩きたい。

 カクヨムの中で「木曜日の往復書簡集」というのを友人の倉木さとしと一緒にやっている。内容としては、僕か倉木さんが質問を考え、それにお互いが答えていく、というもの。
 そんな中で、今回は余談として、僕が24回続けてきた中で感じたことを書いた。

 こちらを書いている時に、引用したい文章があった。

 人は、どう答えるかではなく、何を問うかで評価される。

 というもので、森博嗣「臨機応答・変門自在」の一文です。質問に応えることよりも、何を質問するかが重要なんだ、ということが「臨機応答・変門自在」には書かれていて、その通りだなと思う。

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「木曜日の往復書簡集」を始める時にも浮かんでいた内容ではあったのだけれど、今回改めて、引用して紹介しようとしたところが「何を問うかで評価される。」とあって、僕は往復書簡集を評価されたくて書いている訳ではないしなぁと思ってしまって、やめた。

 ただ、森博嗣が「臨機応答・変門自在」で主張していることはとても良いので、内容をまとめると以下になる。

 勉強は基本的に自分の外にあるものを吸収するインプットであるが、他人に物事を説明する行為の時こそ情報は整理され、より理解度が深まる。

 というものだった。
 これって、結局はインプットは一人でできるけれど、アウトプットには他人(疑似的であれ)が必要って話で、より深い勉強は一人ではできない、ということを遠回しに言っていて、良いなぁと思った。
 
 9月某日。

 おかざき真里のデビュー作「バスルーム寓話」を読んだ。
 最近、おかざき真里のインタビューや代表作の「サプリ」に関する読者の熱の籠ったブログを読んでいて、ひとまず部屋にある作品を読もうと思った。

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 そこで「バスルーム寓話」を読み損ねていたと気づく。
 内容としては別れを告げてきた男が突然、ペンギンになってしまって、人間社会で生きて行けなくなったので、主人公が自分のバスルームで飼う、という話だった。

 この「バスルーム寓話」の素晴しいところは、冒頭の男が別れを切り出した時の主人公の独白が以下であることだった。

 1994年の
 その日
 私は まだ
  
 徹のことが
 大好き
 だったのだ

 そこから、ペンギンになった男をバスルームで世話をすることになるのだけれど、彼女は「まだ」彼のことが大好きと言っていて、物語の終わりには、大好きではなくなることが示唆されている。 
 
「バスルーム寓話」の肝は男がペンギンから人間に戻る瞬間、彼女は楽しかったあの頃に戻れる、と信じていたこと。
 大好きだと言い続ければ、一度駄目になったものでも元に戻るのだと思っていたかったんだと言うことを、ペンギンの彼の為に大量に買った魚が冷蔵庫から溢れだすシーンで描かれている。

 魚の絵は美しくも見えるけれど、細部まで描きこまれていて、良く見るとグロテクスだった。

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 そんなペンギンの漫画を読んで、ふと思い出したのが、アンドレイ・クルコフの「ペンギンの憂鬱」だった。ロシア文学なのだけど、憂鬱症のペンギンと売れない小説家の話。
 更にアンドレイ・クルコフは村上春樹の「羊をめぐる冒険」を気に入っているらしく、作品全体にハルキ的な空気が流れている。

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 エヴァンゲリオンの葛城ミサトの家に住み着いているペンギンのペンペンもいるので、人間とペンギンが住むというのはポピュラーなのかな? と思う。

 9月某日。

 カクヨムの「西日の中でワルツを踊れ」という作品に黒須友香さんからレビューをいただく。
 許可はいただいていないけれど、嬉しかったので紹介させてください。

記憶を辿り、本当の自分を辿る。失いたくないと足掻いたものの大きさを知る


著者の別作品、『南風に背中を押されて触れる』から繋がる物語です。
『南風〜』で衝撃的な事件を巻き起こした青年・西野ナツキが、記憶を失って病室で目覚める。
…ものすごく、気になる展開じゃないですか(笑)。
 
本作は、迷えるナツキ青年が、自分を知っているはずの様々な人物と話したり、時には霊の力を借りたりして、事件の真相を追っていく物語です。
 
失った記憶を辿る時。
そこに見るのは、かつての自分が失わないために足掻いた、何よりも大切だったもの。
 
ラストは衝撃の事実が明らかになると同時に、ある男の心象を描いた、とても印象的な光景が現れます。
事件の真相と記憶が絡み合い、これまで登場してきた人物たちの動きが、思惑が絡み合う。
 
一部すっきりすると同時に、まだ明かされない謎も気になって、また続きを読みたくなります。
 
岩田屋町物語。
なんて壮大なご近所ミステリーなんでしょう!


 黒須友香さん、本当にありがとうございます。

 個人的に初めて書いたがっつりとしたミステリーだったのですが、楽しんでいただけたみたいで良かった。
「西日の中でワルツを踊れ」を書く時に今思えば念頭に合ったのは、伊坂幸太郎の「物語の筋としては完結していない。でも、登場人物の心境は、それぞれの中では完結している。」だった気がします。

 その為、「西日の中でワルツを踊れ」の中で明かされない謎は当然あって、回収されていないエピソードもある。けれど、主人公の心境は完結している、と言える場所には至った。
 という意味で、僕は物語の筋としての完結には、あまり興味を持っていないんだと思う。

 今後もそういう小説を書くのかは分からないけれど、主人公の心境が完結していない話は書きたくない。


サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。