軽さと重さはまじわるのか。大麦こあら「能美先輩の弁明」から考える。
最近、BL漫画で大麦こあら「能美先輩の弁明」という作品が目に止まりました。
概要欄には以下のように記載されています。
概要の時点でテンションが高いですね。
「愛を知れ!! 哲学科BL!」素晴らしい。僕も愛を知りたいし、哲学科BLなるジャンルには惹かれる。
というわけで購入。
BL漫画の作法を知らないのですが、【単話版】とあり、これが5までありました。買って読むと、どうも1話ずつ販売していて、5話まで今のとこあるということらしかったです(あとから考えれば、これは漫画業界の作法なのかも知れません)。
さて、「能美先輩の弁明」の冒頭はソクラテスの以下の言葉から始まります。
その言葉通りに生きるのが、タイトルにもなっている能美先輩こと、能美正孝です。彼は概要欄にもありますが、天性のヒモ力なるものでお姉さんの部屋に泊まり、お小遣いをもらって、それをパチンコに使ったりしています。
その際のモノローグは「今日も 善く生きる 世間的に善いかは別として」とあります。
この時点で能美先輩の生きる評価軸は「世間的」なものとは逸脱したものだと分かります。「天性のヒモ力を使い自堕落な大学生活」を送るのだから、当然と言えば当然です。ただ後に能美先輩は哲学においては真面目で秀才であることが分かります。
生活における関わり方は不真面目な代わりに哲学には真面目なのが能美先輩です。
では、哲学とはなんでしょうか。
Google先生いわく「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。」とのことです。
哲学が「人生・世界、事物の根源」を探求しようとするのであれば、「世間」の視線はノイズでしょう。あくまで哲学は世間の更に奥にある「原理」を求めるわけですから。
そんな能美先輩の前に「俺 ゲイなんで」とさらりと言いのける後輩が現れます。それが概要欄で言う「超強気クール後輩」の丹瑛人です。
能美先輩が瑛人のカミングアウトを前にして、浮かぶのは母に哲学の本を「役に立たない本」と言われてしまったことでした。
3話では瑛人のカミングアウトを「確固たる自分を持ってて 自分に自信がある」と思い返すシーンがあります。
能美先輩が瑛人を「自分に自信がある」と思うのは、逆説的に能美先輩は自分に自信がないことの証明になっています。母に哲学の本を否定されたことが心に残ってしまうくらい、彼は自分が好きなものに自信が持てない。
で、あるならば、能美先輩がヒモをしているのも、これによって説明可能でしょう。能美先輩は自分が好きなものを好きだと堂々と言う自信がない。故に、特定の恋人を作って関係性を積み上げていくことができない。
それを裏づけるように5話では生まれ変わるならアテナイ人になりたい「また俺に なるのなんて 絶対嫌」とまで言っています。
だからこそ、能美先輩は興味本位で「お前になら 抱かれてもいいわ〜〜」と瑛人に言えてしまう。それは、ある種の軽さですが、それ故に能美先輩は人生を上手くサバイブしているとも言えます。
ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」において、光と闇、細かさと粗さ、暖かさと寒さ、存在と非存在は肯定と否定を分けることができると書いた上で、軽さと重さはわけられない。
「重さーー軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。」
と書いています。
個人的に光と闇も暖かさと寒さの肯定と否定も時と場合によっては、その意味合いは異なってくるように感じます。なので、重さと軽さだけが特別に「ミステリアス」で「多義的」なのか、という疑問はあります。
ただ、重さと軽さは確かに考えさせられる対立であることは間違いありません。
「能美先輩の弁明」に戻ると、能美先輩こと能美正孝が「軽さ」を担っています。そして、軽いことが良いと彼は思っている。
1話で能美先輩が後輩の瑛人を気に掛けるのは、真面目すぎない? もっと、軽やかに肩の力を向いて生きた方が楽だぜ、という優しさなのでしょう。
この接し方から見て、少なくとも能美先輩から見て、後輩の瑛人は「重い」と思われています。
では、瑛人はどのように重いのでしょうか。
すでに書いたように、さらりと自分はゲイだと告白する辺りにも重さを感じますが、能美先輩に「なんで ゲイだってこと隠さないの?」と尋ねられて、以下のように答えます。
これに対し、プラトン?と能美先輩は反応します。 プラトンの「魂の片割れ」をネットで調べると以下のような引用文が出てきました。
作中で二人がお酒を飲むシーンがありますので、少なくとも二十歳は超えていると思いますが、大学生ですので二十代前半でしょう。そんな若者の恋愛が「魂の片割れ」を探すような真面目さを帯びるのか、という点において疑問が生じます。
そして、そんな瑛人に対して、能美先輩は「お前になら 抱かれてもいいわ〜〜」と誘うわけです。重さに対して軽さで返す。
そんな攻防を見ているような感覚になりますが、ここにも能美先輩の「魂の片割れ」なんて言いながら、相手を探していたら傷つく結果になるから、肩の力を抜けと助言しているようにも見えます。
タイトルにもある「先輩」を能美正孝は瑛人に対してちゃんと全うしようとしているのでしょう。それがセフレ関係になるという展開になるのは、なかなかアクロバティックですが。
まだ、完結していない漫画なので、結論めいたことは書けませんが、5話の冒頭ではニーチェの言葉が引用されています。
能美先輩と瑛人は軽さと重さのように正反対の人間として描かれます。ただ、共通点がまったくないわけではなく、二人とも哲学を愛しています。
今、僕が「能美先輩の弁明」を通して考えていることは、二人が結ばれる結末だったとして、それは軽さと重さの正反対を生きる二人だったからか、哲学科BLと称されていることから哲学に対する愛によって結ばれるのか、です。
5話で瑛人と同じように「魂の片割れ」を探す同性愛者の先輩(男性)が登場します。そのため、哲学に対する愛ではない結末に進むのだろうとは思うのですが、結末を予想するエッセイではないので、ここでは割愛します。
では、このエッセイで何が書きたかったかと言うと、クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の文庫本のあらすじに以下のような文言があります。
人生は一回しかなく、それは軽い。
それ故に重さを持って生きたとしても、「魂の片割れ」に出会えるとは限らないし、瑛人の片割れが能美先輩だった場合、そこにはやはり「軽さ」が必要だったと言う結論になります。
軽さは耐えがたいもの、言い換えれば、不真面目さは耐え難く信用できないものなのかも知れません。ただ、軽さを持って浮遊しなければ出会えないものもある以上、一概に「軽さ」を退ける訳にもいきません。
軽さと重さの関係性をどう捉えるべきか。
そして、クンデラの「存在の耐えられない軽さ」における男女の愛は悲劇で幕を閉じました。BLという男同士の恋愛においては、どのような解を見せてくれるのか。
そんなところを注視して、「能美先輩の弁明」の続きを待ちたいと思います。
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