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月に一度の往復書簡集2024【倉木さとし⇒郷倉四季】3回目 AIと影響を受けたライトノベル。

1回目はこちら。

2回目はこちら。

【人物紹介】

郷倉四季
 最近、引っ越しをした。姫路市内の移動だが、気持ち新たなに頑張ろうという気持ち。妻の実家がリフォームする兼ね合いで、妻が子供の頃に使っていた学習机を引き取ることになる。僕の小説を書くスペースは今後、妻の学習机になる予定。ここで、名作を生み出すぞ、という気持ち。

倉木さとし
 三十代後半にして、パチンコは儲からないと気づいた。負けた金額をボートレースに使っていたらとか考えている時点で、やばいのかもしれない。転職したら休みも減るので、こんなこと出来るのもいまのうち。執筆作業が出来るのも、いまのうちという風にならないように、運転中に下書きをかける環境を整えたい。マイクあれば、なんとかなるかな?


※質問2は前回、倉木さんから以下のような内容でした。

 倉木がAIに勝てる部分は、魂や書かなければならない衝動みたいな原動力といった根性論に付随するものばかりです。郷倉君は、作家VS AIとなった際に、何が勝てるのか、そしてどんな風に付き合っていくのが正解かと思いますか?
 ちなみに、芥川賞受賞作みたいな使い方を、僕は批判するつもりはありませんよ。あれはAIの正しい使い方の一つで問題ないと思います。だって、登場人物一人のセリフを友達に考えてもらったようなものでしょ。それって、プロット段階や作品を見せ合う中で、倉木と郷倉君で意見を出し合うのの延長です。あんな風に使いこなしつつ、自分の作品をもっと魅力的に出来る方法がAIの可能性にあるならば、前向きに検討したいので、何か意見があったら教えてもらいたい。

【郷倉四季】回答2 作家VS AIとなった際に、何が勝てるのか、そしてどんな風に付き合っていくのが正解か?


 質問内容はAIについてですね。
 僕はあんまり詳しくありませんので、その点ご了承ください。まず、前提として生成AIは単体では何の意味もなく文章を生成するのであればAIにテキスト情報を学習させないといけないんです。
 その際に学習させたテキストが問題になって話題になったことがあります。

「『ゲーム・オブ・スローンズ』原作者らがOpenAIを著作権侵害で提訴」

 ちなみに日本は購入した本の文章をAIに学習させることは禁止されていないらしいんですが、kindleの本は購入してもレンタルの形式になるので学習させてはいけないんだそうです。
 現在、日本語の生成AIの精度が低いのは学習させる文章をネットから拾ってきているからです。考えてみれば当たり前で、5chや爆サイなんかの文章を無限に勉強したところで良い文章が出てくるわけがありませんよね。
 この辺の知識は「清水亮×東浩紀「2023年AIニュース総ざらい──2024年はどこに行くのか?」で得たものなので、ご興味があればぜひ。

 AIも人間も学習が重要で何を書くかよりも何を読んでいるかに注目すべきなのでしょう。ベートーベンがもしも無人島に生まれて一度も音楽を聴いたことがなければ、交響曲第五番は作曲できないようにインプットなくして価値あるアウトプットは生まれません。
 小説家のインタビューを読むとだいたい昔はどんな本を読んでいて、今はどんな本を読んでいるかばかりですしね。

 という前置きの上で、今回の内容は「作家VS AIとなった際に、何が勝てるのか、そしてどんな風に付き合っていくのが正解かと思いますか?」ですね。
 まず作家VS作家という形になるのかという疑問があります。今触れたように生成AIは前提として学習する必要があります。この学習素材を選別し用意する人が必要です。
 そして、その上で生成AIが吐き出してきた作品が読むに耐えうるものなのかをチェックをする人も必要になります。

 結局、クリエイティブな大切な部分は人間が担っているという現状があります。作品を作るというプロセスが変わったとしても、結局やることは今と大差ありません。
 なにより小説を読むのは人間です。
 我々はAIが書いたと言われている小説を楽しめるのか。あるいは、読んで面白かった作品が後からAIが書いたと言われても、その作品を支持することはできるのか。
 この辺に関して僕はやや懐疑的です。

 東浩紀がAI関係において、よく使う例があります。
 異性と楽しくやり取りをしていて相手のことを好きになる。けれど、その相手がAIだったと分かった時、人は何を思うのか?
 ここで人は結婚詐欺にあったような気持ちになるんじゃないか、と東浩紀は言います。
 僕も同意見です。
 結婚詐欺師はこちらとは別の思惑を持って動いていますし、そうであってもやり取りは本物だったし、詐欺師でも好きだと言う人はいないとまでは言いませんが、少ないことは間違いないでしょう。
 それと同じようにAIが書いた小説だと言われて読んでも、この人は言うても詐欺師だしなぁと思いながら付き合うのと似たような感じになり、それでも面白いと言う読者は少ないのではないでしょうか。

 需要があるのなら作品は作られれば良いし、支持する人がいても良いと思います。ただ、僕から見るとAIは「HUNTER×HUNTER」の「天空闘技場(251階まであり、勝てば上に進める格闘技場)」で言う1階で負けているヤツに見えてしまうんです。
 そりゃあ、無茶苦茶に体を動かせば光ものがある!となるのかも知れません。けど、その動きに法則性はなく、ただ無茶苦茶に動いているだけなら、時間と共に誰も見向きもしなくなるのが自然な流れです。
 とはいえ、いつかAIも一定の法則性を持つ日が来るのかも知れません。ただ、だからと言って「」を習得して200階を超えられるのは何百年先の話になるのか。
 それよりは人間が小説を書いた方が絶対に早いし、本を読みたい人からすれば世界には先人たちによって脈々と読み継がれてきた小説が無数にあって、それらが図書館や本屋に行けば気軽に手に取ることができます。

 現状、AIは敵にまったくなりません。
 というような前提で、AIと我々は「どんな風に付き合っていくのが正解か」について考えてみます。
 AIが小説を書く時に決定的に足りないものがあります。
 それは作家性です。
 佐藤究の「Ank:a mirroring ape」という作品の中で、ある女性が電話口でカウンセリングを受け回復した後に、そのカウンセリングをしてくれた人がAIだったと分かるエピソードがあります。その女性はAIだと分かった上で、そのAIを作った開発者を調べて彼に話を聞くためにサイエンスライターになります。
 ここで彼女が聞きたいと思っていることは、なぜ私を救うAIを作れたのですか? でした。
 彼女はAIという空虚なものに興味は向かわらず、それを作った人間に向けられます。
 変な言い方かも知れませんが、人間は人間にしか興味がないのではないでしょうか。

 一定の作家性を持った人が学習から携わった生成AIが作った小説。であれば、作家性は担保されつつ、その人に対する興味を持って多くの人が読むことはできるのではないでしょうか。
 例えばですが、タモリがAIの学習で学ばせたいテキストをすべて用意し、かつ生成AIから吐き出された大量のテキストを自ら目を通して読めるものに編み直した小説を出版と言われたら多くの人が読みたいと思うでしょう。

 これはけれど結局、人間は人間にしか興味がないという帰結でしかありません。AIは人間が使った。そして、使っているのも人間です。
 今、AIは盛り上がりを見せています。けれど、それはAIそのものではなく、AIという新しい玩具を人間はどう使うのか、という興味でしかありません。少なくとも僕から見ると、そう見えます。

 芥川賞を受賞された作品でAIが使われました。しかし、それは一部分をAIで生成された文章を使ったとのことでした。まだ読めていませんので、どれくらいの濃度だったか分かりません。
 けれど、すべてAIが書いた訳ではありませんし、芥川賞の候補に入るほどの実力を持った小説家が使ったから形になったのであって、素人でも同じ価値ある小説が書けるとは思えません。
 結論。AIは部分的に使うと便利。更に付け加えますと、それなりに賢く技術のある人が部分的に使うと良いもの。
 という感じです。

 最後に個人的にAIを活用してみたいことを一つ。
 AI関係に関して調べていく中で、AIを使ってノベルゲームを作っている人がいました。これにはちょっと興味が出ました。システムから背景、立ち絵、BGMなんかをAIで作れるのなら、インディーゲームの世界に足の指先くらい突っ込んでみたいなと。
 倉木さんご存じですか? 最近、インディーゲーム業界が結構な盛り上がりを見せているらしいんです。

 最後の質問の「自分の作品をもっと魅力的に出来る方法がAIの可能性にあるならば」ということですが、小説が書けるという能力を別のジャンルで発揮しようと思った時に使えるのではないでしょうか。
 それこそ倉木さんの作品はノベルゲームの枠組みで読ませるように作り替えたら、今までとは違った人たちに認知してもらえるかも知れません。

【郷倉四季】質問3 倉木さんが影響を受けたラノベはなんですか?

 吉川浩満の「哲学の門前」に「人間っぽいAIとAIっぽい人間」という章があります。
 ここで、カール・マルクスの「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」という一文が引用されています。
 どういうことでしょうか。
 吉川浩満は以下のように説明します。

  たとえば、チンパンジーは仲間同士で毛づくろい(グルーミング)と呼ばれる行動をしますが、これは単に互いの毛並みを整えているのではありません。霊長類学の研究によって、毛づくろいは仲間同士の協力関係や順位制を維持したり紛争を解決したりするための社会的コミュニケーションでもあることが明らかにされています。このような認識が可能であるのも、そもそも私たち人間自身がコミュニケーションに関する高度な理論と実践を身につけているからにほかなりません。人間の解剖は猿の解剖に役立つのです。

 そして、吉川浩満はこの構図は人間と人工知能(AI)にも当てはまるのではないかと書きます。「人工知能は、人間の知性をモデルにつくられた、言ってみれば次世代の「高級」な知性(の候補)」だから、と。
 この「「高級」な知性(の候補)」であところのAIについて、倉木さんのご質問によってここ数週間ほど考えてきました。
 結果、僕が得た実感は「少なくとも小説家志望くらいは本をいっぱい読むべきだよな」でした。
 前回の回答でも書きましたが、AIにおいて重要になるのは「学習」です。ネットで読める文章だけを学習させれば解像度の低い文章を吐き出す生成AIが完成するわけですから、人間は可能な限り良質な文章を読んで解像度の高い文章を目指すべきなのではないかと思う次第です。

 同時に僕が興味深く思うのは生成AIは文章を学習しなければ文章を生成できませんが、人間は映画やアニメ、ゲームの「学習」によって文章を書く(書こうとする?)人がいることです。
 もし仮にAI的な価値観に基づくのなら、小説家を目指すのなら小説や文章で書かれたあらゆる本を読むはずです。しかし、現実に小説家志望の人たちを観測する限りはそうではありません。
 AIはこの一見不可解な事実に対し、どのような解答を持つのか気になるところですが、今回は僕なりの解答を導き出しそれを質問にしたいと思います。

 最近、X(旧Twitter)にて「ライトノベルの解説本企画において、作家に「あなたが影響を受けたラノベは?」と聞くと、コメントを断られることが多いと仄聞する」というポストがありました。
 このポストを読んだ時、ふと「あなたが影響を受けたアニメやゲームは?」と尋ねた場合もコメントは断られたのだろうかと疑問に思いました。
 作家の読書道というウェブで読めるインタビュー記事があります。この企画が僕は好きなのですが、小説家になる人は誰も彼もが本当によく本を読んでいるんです。
 例えばですが、「ライトノベル作家の読書道」という企画をした時、それは成立するのでしょうか。先程のポストを踏まえると難しいのかも知れません。
 しかし、同時に「ライトノベル作家のコンテンツ道」にしてアニメや漫画、ゲームなんかを縦横無尽に語ってもらう企画にした場合は、なかなか盛り上がるのではないでしょうか。

 これは作品で何を大事にしているかという話なのだと思います。
 ライトノベルはどれだけ魅力的なキャラクターを書くかやワクワクする展開をスムーズに読ませるかが重要になっているコンテンツです。可愛い女の子を考える時に大江健三郎や三島由紀夫を読んだりはしません。
 それよりは流行りのアニメをチェックしたり、話題のアプリゲームをプレイする方が読者のニーズを意識することができるはずです。

 ちなみに、今年の2月にファンタジア大賞、電撃小説大賞、スニーカー大賞の各大賞作品が出版されて話題になっていました。ご存じですか?
 2月1日に第28回スニーカー大賞〈大賞〉受賞作として凪『人類すべて俺の敵』(スニーカー文庫)が、2月10日に第30回電撃小説大賞〈大賞〉受賞作の夢見夕利『魔女に首輪は付けられない』(電撃文庫)が、2月20日に第36回ファンタジア大賞〈大賞〉受賞作として零余子『夏目漱石ファンタジア』(ファンタジア文庫)が刊行されました。
 あらすじを読み限り電撃文庫が王道でシリーズ化しやすそうで、スニーカー文庫はタイトルでちょっと損をしてそうだけど設定は面白い、ファンタジア文庫はニッチな読者を獲得すれば人気になりそうな印象でした。
 まだ読んでいないので何とも言えませんが、各レーベルの特色を現したバラエティーに富んだ三作に思えます。

 あえて注目するのなら『夏目漱石ファンタジア』ですかね。漫画ですが、『文豪ストレイドッグス』も人気ですし、過去の文豪をキャラ化した作品は今後も需要はあるのではないかと思います。
 同時にライトノベルで言えば「文学少女シリーズ」もありましたし、文学作品をあえて扱うことは読書の幅を広げるきっかけの一つにもなるのでしょう。

 さて、本当は「葬送のフリーレン」と「ダンジョン飯」を絡めて「ゲーム的世界観を前提とした」作品について質問をしようと考えていたんですが、はじめにAIの話を絡めてしまったせいか、小説家とライトノベル作家の違いみたいな話になってしまいました。
 なので、「ゲーム的世界観を前提とした」作品の話は別の機会にして、今回の質問は「倉木さんが影響を受けたラノベはなんですか?」にしたいと思います。

 と質問する以上、僕が影響を受けたラノベはなにかを考えてみました。『アリソン』からはじまる「一つの大陸の物語シリーズ」と「文学少女シリーズ」と『カレとカノジョと召喚魔法』の三つを挙げたいと思います。
 三つに共通しているのは、良かれと思ってしてしたことの責任を取ろうとする物語だと言えます。
一つの大陸の物語シリーズ」は『アリソン』で二つの国で起きていた戦争を止めて(一つの大陸に)してしまったこと。
文学少女シリーズ」は好きな女の子に向けて書いた小説で作家デビューしてしまったこと。
カレとカノジョと召喚魔法』は幼馴染の女の子が事故で動かなくなってしまった足を悪魔と契約して治してしまったこと。
 三つとも悪いことではなく善いことなんですが、それによって不幸になる人がいて、世界そのものも変えてしまう。そして、それには責任が生じてしまいます。
 責任を負うこと。それが大人になる一つのプロセスなんだと僕はライトノベルを通して学んだように思います。
 そういう意味で僕はライトノベルを十代の頃に読んでいて本当に良かったです。

【倉木さとし】回答3+質問4 自分の小説が生身の体に影響を与えた経験はあるか。そして、そうやって影響を受けるのは健全なことか。


 個人的に小説のようなものを書きはじめた時期に影響されていたのは、ラノベではなくスーパーロボット大戦なんですよね。いろんなロボット作品が集まり、味方が増えた分、敵も増えるので、力を合わせて脅威を打ち破り、地球の平和を守ろうぜというシュミレーションゲームです。
 ゲーム性よりも別作品のシナリオが絡みあうのが読んでいて楽しくて、色んなスパロボをクリアしました。
 いまにして思えば、スパロボって二次創作にカテゴライズ出来る部分があります。オリジナル作品では不幸になった物語も、他の作品と関わることによってその不幸が回避される。そういうのを好意的に見てきたからか、二次創作に執筆時間を割いてるのかもしれんと自己分析したけど、この話はまたの機会に。

 さてさて。過去に影響を受けたライトノベルは、小野不由美悪霊シリーズや、賀東招二フルメタルパニックシリーズ秋山瑞人作品全般あたりかな。どれか一つが欠けていたら、いま小説を書いてはいなかったかもしれない。
 ここらで、それぞれの作品概要を書くべきなのでしょうが、影響を受けた作品を勧めたいわけでもないんよね。

 概要を書かないのに、書かないための言い訳をこれから書きます。
 最近「SAND LAND」という鳥山明の作品をみて感じたのですが、全部説明して客に理解してもらったり、横道にそれた展開で盛り上がったとしても、それで本筋がぶれては意味がないんだよなぁって。
 うまいこと柳田理科雄が言語化していたので引用させてもらうと以下のとおり。

「おそらく壮大な世界観が構想されていて、そこには魅力的な設定がたくさんある。いずれも物語の中心に据えることもできるし、話を盛り上げることはいくらでもできるだろう。だが、それらはサラリとしか使われていない。鳥山先生はこの作品で、ラオの熱い想いと、ベルゼブブのまっすぐな性格だけを真摯に描いているのだ。なんという贅沢な作品だろうか」

 というわけで、今回の質問で倉木が答えたいのは、影響を受けたラノベ作品の話ではなく、影響を受けたことで一人の人間がどのように小説というものに呪われて狂っていったかを重要視したいのです。なので、作品の詳しい内容は割愛します。以上、言い訳終わり。

 悪霊シリーズやフルメタシリーズとの出会いに共通しているのは、どちらもメディアミックスされた媒体から知ったということ。
 ラジオ番組「宮村優子の直球でいこう」の中で放送されていたラジオドラマで、悪霊シリーズを知りました。当時は、いまみたいに悪霊シリーズの小説を手に入れるのが簡単ではなかったので、市の図書館でみつけ、貸出禁止だから、その場で読んでいきました。買えるものは一部だけ買ったけど、手元にはないぞ。あいつに貸したままみたいだ。

 フルメタシリーズは、アニメから入って原作を読み、最初のアニメ化から数年後に続きがアニメ化されて、テンションが上りました。けれど、面白いのを知っているのに、アニメは見ないという小説の大勝利が倉木の中で起きている。フルメタは、無茶苦茶好きだからこそ、書き始めたら止まらないので、ほとんどなにも触れないようにしておきます。

 上記の二つのシリーズと違い、友達にすすめられて読んで影響を受けた作品が「イリヤの空、UFOの夏」である。この作品はラジオドラマもきいて、アニメの円盤も漫画もフィギュアも買っているほど大好きだ。アニメや漫画では原作の魅力を描き切れていないから、小説ってやっぱ最高なコンテンツだと、この作品でも感じたものです。いかに素晴らしい作品かを語っていたら、こちらも膨大な量になりそうなので、やはり割愛する。
 だが、今回に限っては語っておかねばならないこともある。
 それは、作者の秋山瑞人に関して。
 秋山瑞人は、電撃文庫の賞(当時は電撃ゲーム大賞だったのかな?)に応募して、受賞せずにデビューを果たしている。というのも、新人賞の締め切りを守らずに応募した作品が目にとまったらしい。このエピソードだけでも鬼才とわかる。
 元来、ラノベはキャラクターに人気が出て売れるそうです。ヒット作がなかなか終わらずに長期シリーズとなってしまっている原因は、そこにある。実際に、大ヒットしたラノベを書いた作家なのに、新作がいまいち売れていないというのもあるので、読者が求めている優先順位は、好きなキャラクターが登場して活躍するかというのが大事、この作者が描く物語だから好きだというのは、残念ながら順位を落としているようです。
 だが、秋山瑞人の作品に一度ハマったものは、作品やキャラクターで購入するのでなく、作家で本を購入するようになる。秋山瑞人の熱狂的な読者は、自分たちを瑞っ子と呼び、秋山瑞人の作品が足りなくて、いまもどこかで潤いを求め、乾いている。
 ラノベ以外の小説ならば、作者買いをするのは当たり前なのだが、ラノベでそれをやってのけているのが、本当にすごいし、自分も秋山瑞人のような作家になりたいと思ったものだ。

 これらのラノベ作品に影響を受けて、倉木の執筆人生はすでに二十年以上が経っています。別にどこかに発表するでもないのに、書き続けるわけのわからない人間になりました。やる気や小説の一行目を書くための衝動を、影響を受けたラノベ作品からいただいたといえば、きこえはいい。が、実情としては、もう止まらないんです。狂ってるんです。執筆を辞めようとしたけど、駄目でしたから。
 倉木にとっては悪霊シリーズであり、フルメタルパニックシリーズであり、秋山瑞人作品であっただけで、誰もが影響を受けた作品があるから、小説を書き続けられるのではないでしょうか。だからこそ、倉木が影響を受けた作品がどんなもんだと読むよりも、自分に影響を与えた作品を読み直すことに意味があると思います。

 なんだか精神的な話ばかりになってしまったので、ふわふわした感じになってますね。
 最後ぐらいは、技術的なことで影響を受けたラノベの話をしてまとめます。

 ガンダムの小説は、非常に作品づくりにおいて参考になりました。

 なんともざっくりとした言い方になりましたが、ガンダムの小説全般に影響を受けているから、こういう言い方になってしまいます。
 ガンダムは先にアニメが放送されていることが多いので(一部小説からアニメ化というパターンもあるけど)、アニメで映像化された尺と同じ流れのシナリオを、どうやってまとめているのかは、小説を読めばわかるので勉強になります。
 物語をまとめるためにはどうやって改変し、同じテーマと展開でも映像がないからこその見せ方の答えが、描かれているのです。小説原作でアニメを作られた場合では、小説通りにされるために参考にならないのですが、逆のパターンだと学ぶことが多く、影響されまくりです。
 小説サイトに掲載し、ダラダラと続いていき、終わらせ方がわからないものばかりを書いて、賞に送る際のまとめ方がわからなくなった時こそ、ガンダムの小説に立ち返るべきなのではないかな。いま、書きながら自分に言い聞かせている最中です。
 そのうえで映画シナリオの基本である三幕構成を使いこなせば、長い物語も劇場版用の総集編みたいにまとめることが出来るはず。そろそろ、大量にある下書きの小説を新人賞に応募するサイズにまとめていこうと思います。

 そういえばと、ガンダムの小説を読んでいた学生時代を思い出しました。昔は友達からガンダムの小説を借りて読んで、アニメとの違いに驚いたものだけど、そういう純粋な読み方が出来なくなっているのは、悲しいことなのかもしれない。

 こちらからの質問に関してですが、結婚の話題とかをしようかと思いましたが、うまく質問がまとまりません。
 なんでだろうなぁと思ったら、体調を崩していたせいでした。これを書いていた頃、忙しかったんですよ。保険の見直しや子供への一生モノになるものを買ったり、家族の病院の付き添いや、自分も病院に用事があったり、さらには職場でお世話になった方がいなくなるとか。なんやらかんやらと、色々忙しくて、執筆関係は後回しになっていました。
 せっかく、クライマックスのシーンの執筆ができるところなのに、待ての状態でした。だから、ようやく書けるぞって、なったときに身体がおかしくなったんですよ。
 体温が39度を越えました。
 病院では原因不明(鼻に綿棒を突っ込まれたので、インフルエンザやコロナではない)とのことで、解熱剤を渡されるだけでした。「顔のない月」という、どのラノベ よりも倉木の人生に影響を与えたエロゲーの再誕が決定して、熱が3度下がったので、小説のクライマックスシーンを描くにあたって、精神がおかしくなって熱が出ていたのは間違いないと思います。
 今度、同じような状況で熱が出たら、お医者さんには「小説を書いていて自分の作品に影響を受けて熱が出てしまいました」と説明するかもしれません。

 ここで質問なのですが、郷倉君は自分の小説が生身の体に影響を与えた経験はあるでしょうか? そして、そうやって影響を受けるのは健全なことだと思いますか?


サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。