曖昧さについて考える。「「書く」(公開する)ために読ん」だ本は「書く」(公開する)に役に立たつのか。
X(旧Twitter)で松田樹という方の以下のポストが目に止まった。
吉行淳之介のエッセイでよく出てくる話で、小説のネタになると思って行動したことは大した小説のネタにならないが最初に浮かんだ。
僕は「「書く」(公開する)ために読ん」だ本は「書く」(公開する)に対して役に立たないんじゃないか、と疑っている。
いや、違う。「僕の場合は」役に立たないと書く方が正しい。より正確には、読んだものはすぐには「書く」に役立てられない。
本を読んだ時、水が地面の表面を濡らすように地層まで内容が浸透していない。この状態で何を書いても他人の言葉を借りて喋るようなもので、自分の言葉にはならない。
自分の言葉になっていない語りは読んでいて上滑りしていて、読む人が感じるかは分からないけれど、書いた僕は違和感を持つことがある。
この上滑りは「書く」ことに留まらず、「読む」場合にもたびたび起こる。
小説であれ、漫画であれ、レビューを読むとストーリーの話に終始している人がいる。時々、僕もしてしまうけれど、それもまた濡れきっていない地表を掬い取るような行為に思える。
小説であれば、文章表現。漫画であれば、絵やコマ割り。ストーリーを語るだけでは、その表現がなぜ小説なのか、なぜ漫画なのか、という部分まで届かない。
小説の形をしているなら、小説でしかできないことをしているのか、しているとしたらそれは何なのか。
優れた小説とは、結局のところ小説でしかできないことをしているかどうか、と言い換えることができる。
しかし、同時にそんな意識の高そうな意見はどうでもよくて、小説であればメディアミックスされてアニメか実写化されて、いっぱい売れた方が良いじゃん、という意見もある。小説の文章表現はあくまでストーリーを伝えるツールであって、そこに凝っても仕方がない。
それよりも面白いかどうかだろう、と。
けれど、実はその面白いかどうかを考えていくと、小説ならではの表現にぶつかったりする。小説には小説の文脈でしか語れない面白さがある。
僕個人で言えば、その表現媒体でしか体現できないものに出会った時に感動するし、その媒体、ジャンルについて深く知りたくなる。だから、「Be creative 産業、ワナビ資本主義、一億総批評化」の末端でこそこそと文章を書いている身として、深く読む(見る)意識は捨てずにいたいと思うし、その意識が良い「書く」(公開する)に繋がるとも信じている。