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呪いや運命はテニスの壁打ちのように打っては返ってくるから。

 吉川浩満があるイベントの中で、スラムダンクの安西先生の名言「諦めたら試合終了ですよ」を引用して以下のような発言をしていた。

 諦めたら試合が終わるなら、ある意味では楽なんですよ。本当に辛いのは諦めても試合が続くことです。

 イベントの内容はクンデラについてで、運命の終わりと生命の終わりは必ずしも一致しない、という文脈の中でスラムダンクの話が出てきた。

 ちなみに、この話を継いでイベント登壇者の一人が「自分はテニスをしているのだけれど、明らかな負け試合だったとしても諦めずに全力で戦います。それは試合の途中で自分は諦めたという事実を背負いたくないからです」という発言をした。
 良い考え方だと思った。
 運命はここで「呪い」と置換しても良い。試合で負けると分かって諦めたことは呪いになりえる。だからこそ、呪いを跳ね返すために「全力で戦った」という事実を獲得する。

 友人の倉木さんと往復書簡という互いに質問をし合う連載をしている。その中でディズニーの話になった。僕がディズニー作品を見始めたのは、ここ一年のことだった。
 理由は幾つかあるけれど、その一つに「人生の中でディズニーを見ずにきた」という事実を背負いたくなかったからは一つ大きい理由としてある。
 映画や本に関しては見たり読めば解消されるからシンプルで良い。
 
 考えてみると、僕の人生はそういう風にできている。
 専門学校時代、本は月に十冊は読みなさいと先生に言われていた。けれど、当時の僕は十冊の本を月に読むことができなかった。
 僕は人生の中で月に十冊本を読むことができなかった、という事実。
 僕はそんな事実を背負いたくなくて二十代前半は本を読んだ。もし仮に、月に十冊読むことができなくても、挑戦してダメだったと思えることは一つの慰めになるとも思った。
 結果、十冊は読めたし、読書のやり方が分かって今は好きで読んでいる。

 僕は本が読めないと言う呪いを打ち返した。
 ただ、その後に、満足な小説は書けなかったと言う呪いが僕を襲った。
 呪いや運命は跳ね返した後、またテニスボールのように返ってくる。人生はその呪いだか運命だかを打ち返し続ける連続でしかないのかも知れない。

 僕が小説に関する呪いを打ち返したのは二十代後半のはじめだった。失業保険をもらって小説に全精力を注ぎ込んだ半年間で書いた小説は僕の満足のいく出来だった。
 それで小説家になれたなら、話は幾分簡単だったと今は思う。

 僕は小説家になりたいと十代の終わりに願った。
 結局、僕は小説家(小説でお金をもらって食べる職業としての小説家)にはなれなかった。
 この呪いは確かに今、僕の中にある。
 人生全部使って打ち返せる呪いなのかは分からないけれど、挑戦はしたと自分が納得できるだけのことはしていきたい。
 三十代になって、僕は今そんな風に思っている。


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さとくら
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