制限を取っ払ったら、制限を作っていた信念に気づけた
「何かを発言するほど自分は立派な人間じゃない」
ずっとそう思っていたらしいことに最近気づいた。
その裏にある隠れた信念はこれだ。
「何かを発言する人は立派な人間であるべき」
ヨガについて話すなら、ヨガを極めなきゃいけない。
Integrated Healingについて話すなら、素晴らしいプラクティショナーでなきゃいけない。
私をはじめ資格取得の沼にハマる人も多かれ少なかれ似た信念を持っているかもしれない。
資格を取る=それだけの知識がある、だから何かを言う(伝える)立場にあると信じられる。
もちろん、勉強することは素晴らしくて、資格を持つことが自信につながるのも確かだから、資格取得を否定したいのではない。
ただ、資格取得を目指すその奥にある信念が「できる人間でないと発言してはいけない」だった場合は、資格を取ったところで発言できない自分は変わらない。
資格を取っただけではできる自分にはならないから、「次は何を勉強すればいいんだろう?」とまた他の資格に目がいくだけなのだ。
やるべきは、今の自分で発言していいって許可を出すこと。
なんて、それはわかっていたんだけど、「わかっていてもできていなかったんじゃーん、自分!」ってことに気づいたのである。
気づけたきっかけはいろいろあるが、一つ大きいのは、内田舞さんの『ソーシャルジャスティス』を読んだこと。
第1章の「脳科学で考える炎上のメカニズム」で、理論のねじれについて触れられている部分を読んで、ねじれた理論で人のことを批判していることが自分にもあると認めざるをえなかった。
もちろんそれを声に出すことはしないけど、心の中で人を批判してるってことは同じジャッジを自分にもしているのだ。
たとえば「Whataboutism(そういうあなたはどうなのよ?)」。
私は「世界は愛なんだよ。みんな、愛の中で生きようよ」ってすごく思っていて、それを伝えていきたいんだけど、「そういうあなたは愛の中で生きられているの!?」って、自分をずっと監視していた。
できている人じゃないと発言しちゃいけないと思い込んでいたから、誰かに「そういうあなたは愛の中にいるの?」って聞かれた時、「います」と言えない限り、それについて何か書き伝える資格はないって思っていた。
でも、完全に愛の中で生きられるようになったら、たぶんもう今生のカルマ達成だから、この世にいないよね、きっと(笑)。
だから、できるようになるまで待つ必要はなくて、今、気づいていること、考えていること、感じていることを伝えればいいのだ。
いや、それは既にやってはいるんだけど、どこかに「これが何になるんだ?」「プロの仕事と言えるのか?」というようなモヤモヤがあったのが消えた。
気づきや考え、感じているっていうレベルで伝えることは別に欠落ではないって心から思えるようになったし、「できている人」としてでなく「できるようになりたい人」というスタンスで書いていいって自分に許可を出せた。
神様というか世界の導きってすごいなっていつも思うのだけど、私は1ヶ月ほど前から「noteで制限を一切なくして書く」ということを実行していて、それも今回の気づきにつながっている。
「制限をなくして書いてみる」と決めたとき、私の頭の中にあったのは、テーマや文体、起承転結を気にしないっていう程度の制限のことだった。
ただ、その表面的な制限を取っ払ってみたことで、その下にあった一層深い制限、「私には(立派そうなことを)書き伝える資格がない」という信念が浮き彫りになったと感じるのだ。
こもって内省するのと同じくらい、行動することもまた気づきを促すよねっていうのも今回の気づき。
っていうか両者はペアなんだろうね。
そんなこんなで「ありえなければありえないほどいい」の段階はひとまず終わったことを感じている私の次のスローガンは「迷うなら動け」かな。
さて、何が出るかな。
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