本当は、ずっと、自由だった
最近、私は、心のバンジージャンプを飛びまくっております。
きっかけは、動作学マガジンの原稿が書けなくなったこと。
これをきっかけに、私は、何かを書くとき「こんなもの、誰が読みたいんだろうか?誰の何の役に立つのだろうか?」というジャッジを自分にするのをやめました。
言い換えると、書きたいと感じたことは素直に出す、ということを心がけるようにしたんです。
書きたいと感じたことは素直に出す。
言葉にすると簡単ですが、ずっと自分を(気づかないうちに)縛っていた私にとっては書きたいという気持ちに従って素直に行動することの一回一回がバンジージャンプです。
たとえば、昨日、書いた、サーフボードについてのマニアックなサーフィン日記も、「これが誰の役に立つんだ?」「この話の何が世界を幸せにするのだ?」「こんなの読みたい人いるか?」って、ものすごいツッコミが自分の四方八方から入るのをいちいち全部聞いて、「はいはい、でも、これはバンジージャンプですから、あんたたちが何を言っても飛ぶんですよ」と自分に言い聞かせて投稿(公開)ボタンを押しているのです。
そして、公開した結果がどうであれ、書きたいと感じたことを素直に出すことを実行した、そのプロセスに対して花マルをあげる。
これを繰り返しています。
それが良いことであるとか、皆そうすべきだ、と言いたいわけではありません。
ただ、私のどこかがそれをやりたい(それをやる必要がある)と感じているから取り組んでいるだけです。
一回一回のバンジーは毎回ソワソワして逃げたくなります。
でも、飛んでしまうと、「はて、一体、私は、何を怖がっていたのだろう?」と笑えます。
自分ではバンジーを飛んだつもりだったけど、飛んだのはくるぶし丈くらいの段差だったわ(笑)、みたいな。
でも、じゃあバンジーは無駄かというと、まったくそんなことはないということを実感しています。
バンジーを一つ飛び終えるたび、自由度が確実に増しているのを感じるからです。
そりゃそうです。
これまでなら「ありえない」と制限していたことを、「あってよし」とするわけですから。
「ありえない」が多いと自由度は減り、「あってよし」が増えると自由度が増す、自然な法則です。
でも、私はそれを頭で考えていただけで終えていたことに気づかされたんですね。
頭で考えている時はまだ意識しか変わっていない状態。
そこから行動に移した時、変化を体験として手に入れるのです。
私にはそれ、つまり行動して自分の血肉にする、ということが必要だったのだと思います。
小学生の頃、図工の授業で、飾り皿を作るという課題がありました。
動物など好きなモチーフを選び、好きな一言を入れるのが課題で、私は子鹿の絵を選び、「自由」という言葉を入れました。
それを見た母が、ちょっと呆れたように言った一言を今も覚えています。
「こんなに自由にさせてあげているのに、まだ自由が欲しいというの!?」
それで私は、自由を望むのはわがままなことなんだって思うようになりました。
でも、今はわかります。
自由って自分の置かれている状況のことじゃなくて、自分の心の状態なんだって。
私は、私の心を縛っているものから自由になりたかっただけ。
生きるというのは本当に楽しい。
亡くなった夫はこういう話が好きだったから、時々、すごく話したくなります。
あなたが亡くなったあの時には謎だったいくつかのことが、今は言葉で説明できるくらい自分の人生の一部になっているよ、って。
でも一方で、彼が亡くなったからこそ、生きるということについて、それまで以上に熱心に考えるようになったのかもしれないなぁとも思います。
私は、本当は、ずっと、自由だった。
これまでも、これからも。
みんなが自分を縛っているものから解き放たれたら世界は平和になる、わりと本気でそう考えています。
だからって私がやることは、私の心が囁いてくることを丁寧に聞き取って臆せずに実行する、それだけなのですが。
でも、臆せずに実行した、そのことに花マル、でいいのです(と少なくとも今は思っています)。
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