通勤日記ーはじめにー
通勤の苦痛は、いつの世も変わらない。満員電車の中は、嵐のようなプレッシャーがうず巻き、荒波にもまれる小舟のように、外力との闘いを余儀なくされる。急加速、急減速、急カーブなど、突如おそう慣性力には、つねに緊張を強いられるし、まわりに女性がいたりすれば、その身体に触れない努力が必要になる。
だから、朝夕の通勤時間は、すわりたいと思うのが当然だ。
朝の通勤に体力をついやし、ヘロヘロの状態から仕事をスタートすれば、フットワークも悪くなるしミスも増える。ミスが増えれば、上司から怒られるだけでなく、関係者へも迷惑をかける。迷惑をかければ、信用という大切な絆を失い、その流れで営利を失うという、負のスパイラルに陥る。仕事をするうえで、なにひとついいことはない。
また、帰りの通勤も同じだ。もし座れなければ、一日の仕事で疲れた身体を、さらにいたぶることになる。その結果、帰宅後の夫婦生活に支障をきたせば、家庭崩壊の引き金にもなりかねない。立つか座るかでは、疲労度に雲泥の差があるのだ。
そんな通勤だが、ここ三十年ほどで、とりまく環境は大きく変わった。
ひとつは、鉄道会社間の相互乗り入れがさかんになり、路線がより複雑になったことだ。
この通勤日記の時代背景は一九九〇年代。当時の営団有楽町線(現在は地下鉄有楽町線)は、西武池袋線と連絡し、東武東上線へ乗り入れていた。ところが、二〇二四年のいまは、東武東上線や西武池袋線と相互乗り入れをするだけでなく、副都心線から東急東横線にもつながり、埼玉の飯能や森林公園から、横浜の元町中華街まで、乗り換えなしで行くことができる。また本数は多くないが、西武秩父駅発、元町中華街行きという、乗車時間が約二時間半の列車も運行されている。
まことに便利な世の中なのだが……。それらをうまく利用するためには、それなりの知恵と知識が必要である。スマホで最短の移動を検索できる人にとっては、複雑も便利と言いかえることができるだろう。だが、そうでない情報弱者とにっては、路線の複雑化イコール難しいという、混乱誘発の原因でしかない。
たとえば、同じホームからの発車なのに、行き先違いの電車に乗ってしまい、知らないあいだに、知らない駅まで連れて行かれたり、乗換駅で降りそびれ、次の駅で慌てて引き返したり、ということだ。かく言うぼくも、なんどか経験ずみである。
いま流行のスマホもそうだが、「難しいけど便利な高機能」から、「簡単に使える便利な高機能」への変化が、求められるのではないだろうか。
もうひとつ、いまと一九九〇年代の違いは、通勤者が手にするものだ。
いま誰もが手にするスマートフォン。ニュースを閲覧したり、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で友だちとおしゃべりをしたり。コレなしでは生活が成り立たないほど、広く深く生活に浸透している。
先日も、電車に乗っていたら、二人の子供を連れた夫婦が乗り込んできたのだが、席に座るやいなや全員がスマホ取りだし、無言で画面をこすりだした。せめて外出したときくらい、いつもと違う風景の話をしたり、家庭では交わせない会話をすればいいのに、なんて思ってしまったのだが……。
しかし、一九九〇年代の携帯電話は、いまでいうガラケーしかなかった。ガラケーでもネットワークサービスが受けられたが、いまほど充実したコンテンツはなく、多くの通勤者の手には、本や雑誌があった。
時代はおおきくうねると言いうが、この日記を書いたころの一九九〇年代は、携帯電話の黎明期で、スマホ時代に舵を切るのは、まだだいぶ先のことだった。そう、あのアップルコンピューターのiPhoneが生まれたのは、この時代から十年後のことである。
この通勤日記は、一九九〇年代に綴り、二〇二四年に加筆したものだ。ほとんどが戯れ話しで構成されているが、当時を懐かしみつつお読みいただければ幸いに思う。
なお、この日記の通勤経路は、つぎのとおりである。
自宅==(バス)==志木駅
志木駅==(東武東上線)==和光市駅
和光市駅==(地下鉄有楽町線)==有楽町駅
有楽町駅==(JR山手線または京浜東北線)==浜松町駅
つづく