走る意味の転換と今出川殿
私はランニング好きである。ありがちな理由、健康診断でメタ、、、から始まったものだ。
ところが、走り始めて約3年、完全なる逆転現象を体感する。そう、いつの間にか、走るために痩せねば、と思うようになっていた。
つくづく、ランニングは面白い。ひたすら走るだけ、すべてをそぎ落としたシンプルな行為だからなのだろうか。もう少し早く走りたい、もっと長い距離を走れるようになりたいetc。ひとつ目標が達成できると次が`見えてきてしまう、きりがない。そしてやめられない、いつから自分は求道者になったのか?
それはさておき、脳内に今出川殿(足利義視)が出現した。
彼は、応仁の乱で当初東軍に担ぎ上げられ、その後魑魅魍魎の変遷を経て、西軍に走るという行動をとった方。
当時の足利家と有力武将との政治情勢から、御輿的なポジションでもあったわけで、鞍替えが本人の意図ではないのかもしれないが、かなり大胆?豪快?な転換劇と言えよう。
彼の事例と、自分の中でのランニングが辿った目的と手段の交代劇に、妙な親近感を勝手に感じてしまう。
立場が完全に入れ替わる事象、私の中では 走る意味=足利義視、という私にしか理解できないだろう不動の方程式が成り立ってしまっている。
今出川殿に妙なシンパシーを感じている。
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