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現実逃避してた私・繊細な自分を恥じていた私

こんにちは。
今日は現実逃避してた私について。

乖離って聞いたことありますか?
心理学用語で、目の前の現実が辛くて受け止められなくて、自分の出来事と切り離しちゃうんですね。
なんか、他人事にしちゃうんです。
いまのは、本当の私の人生とは違う。
本当の私はしまっておいて、別人格で応対しているというか。
パラレルワールドというか。

私は幼少期から学生時代、そして大人になって結婚しても、乖離している期間が長かったんです。

目の前のことを必死に頑張ってるし、そして傷つきやすくて何かと傷ついていてるんだけど、

どこか、これは本来の自分の生き方じゃないから。本来の自分じゃないから。って、そういう方向で慰めていた。誤魔化していた。

だから、私はずっと現実に地を降ろさないで、夢ばかり見ていた。

現実に目を向けず、未来の可能性ばかりみている。こんなはずじゃない現実にイライラしながら、向き合えない。
だけど、むやみに大きな夢を描いてみたりする。

その癖は、幼少期に育った機能不全の家庭を出たあとも変わらなかった。
今は仮。まだ見ない未来が真実。
今は仮だから。どんな状態でも大丈夫。

そうやって適応してきました。

私は繊細でした。そして繊細な自分をとても恥じていました。細かいことは気にしない。豪胆で、大らかで、肝っ玉があって、そういう人に憧れて、そうであるべきだ。と思い込み、そういう自分を演じてきました。

それは父親の影響もありました。
父はテレビを見ていて豪胆な女性を褒めました。
泣く女を極端に嫌いました。

私の家庭は母親が精神分裂気味で、パーソナリティ障害を持ち、ヒステリックで情緒不安定だったので、

母は異常、父は正常。
幼少期、私はこう思ってこう捉えて生きてきました。

なので、父の価値観を強く取り入れ、父が気に入らないものは強く排除し、気にいる物を必死で取り入れていたと思います。

でも、私はとても繊細でした。
秋の風に木の葉が揺れても心揺さぶられる。ピアノを弾くのですが、細かい弦の揺れる響きに涙する。そんな感性でした。

人の感情の機微にひどく敏感でした。
そういう自分を恥じ、細かなことは気にしない自分を演じ、細かいことを気にする人を嫌いました。

私は恥じる必要があったのでしょうか。
私は繊細な自分を大切にしたいと、これを書きながら心から思いました。

もし、これを読んでくださっている人の中で、
私と同じように繊細な自分を恥ずかしいと思っている人がいたら、

どうか、どうか、
恥じないであげてください。
細やかな感性を優しく受け容れて包み込み愛してあげてください。繊細さとともに生きてください。

女性も社会進出し、外では男性のような強さを求められる時代になりました。
ですが、女性の持つ繊細さ、細やかな気配り、相手の表情を察する力、これが平和を守ってきたと思います。

いまの女性は大変ですよね。社会では男性性が求められて、家庭では女性性が必要で。

男性が女性化しているのは、
女性が男性化しているのを補っているからなのかな。と思うときがあります。

私は自分の女性性も強く恥じ、否定して生きてきました。男っぽいところを褒められて伸ばされてきました。
おかしな話ですね。 

こうして、私は私でない私を演じたり、
いまは仮なんだとすることで、
ずっと地に足をつけていない。そんな生き方をしていた気がします。

私はこのまま。いままでそうして乖離して生きてきた私もわたし。繊細な私も、繊細さを否定してきた気にしぃな私もわたし。
男気があふれてしまう私もわたし。男らしくあらねば。と男に負けんとする私も私。

まるっとそのまま私です。
こうして、noteに書き記すことで、
過去の自分が受け容れられている気がします。

皆さんの同じことがあったら、
受け容れられるきっかけになったら、
嬉しく思います。



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