令和5年6月13日。
この日は私にとって忘れられない日となった。
梅雨の合間の晴天の午後。
相模湾が一望できる高台の果樹畑での梅もぎに連れて行ってもらった。
畑といっても、殆ど人の手があまり入っていないような、
林というか森というか、鬱蒼とした急勾配の斜面に広がる梅林。
そこで私は初めて梅の木に登った。
これまで脚立に登って梅の実をもいだことはあったのだけど、
木に登ったのは初めてだった。
私は高いところがあまり好きでない。木登りもやったことなどない。
そんな私が、どうして登ったのか。
木が登れと言ったからだ。
そして一歩、木に登ってみると、「次はここに足をかけるといい」ポジションがはっきりと分かり、また足を進めると「次はここ」という塩梅だった。
どこにどう足をかければいいのか
木が教えてくれているのだ。
これにはびっくりした。
これは木が自然にそのように育ったのではなく、
先人が、木を剪定したからなのだ。
ともかく、なんとも言えない気持ちになった。
梅園からの帰りの電車で、この体験を反芻していると
とあることを思い出した。
2019年に歩いた伊勢路で感じたこと。
『峠を越えるというのは、アドベンチャーやアウトドア活動ではない。どんな急な峠でも、先人がそこを通るために意図を持って石を運び積み上げて作っ通った道なのだ。だから丁度いいと感じるころで曲がりがあったり、急な石畳の後は平地を少し織り交ぜてあったりと、あちこちに人の息づかいを感じる。独りなんだけど独りじゃない。時空を越えたさまざまな思いが私の中に流れ込んでくる。』
これと全く同じじゃないか・・・。
時空を経て、先人の意図と想いを受け取る
恩恵をうけたというリアルな体感。
脈々と続く流れの中の自分。
ただただありがたくて
帰りの電車の中で、涙してしまうのだった。
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