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お金をエンジニア視点で見る ~お金を忘れた村~

これまでのお話↓

「今の私たちが、もしも『お金』という概念を知らなかったとしたら、自分たちの生活を成り立たせるために、私たちはどうするだろうか? 『お金』というものを、やはり生み出すだろうか?」
そんな問いが半年程前に浮かんだ。

インターネットを介してたくさんの情報を得ることができて、
地理的な制約なく色々な人と関係性を築けて、
最低限の生活を成り立たせるために必要なものは、都市型生活に片足突っ込むことで得られる。
そういう状況にある人達が集って、新たなコミュニティをを作り育てていくとしたら、どのようなエネルギー(お金・能力・時間)の交換の仕方がいいのだろうか?

そういうことを考えていた時に、上述の問いが浮かんだ。

よしっ、じゃあ、
一回、『お金ありき』の考え方をから抜け出して、自分たちが必要としているものを因数分解してみよう!
と思い立ち、仲間を集めて、『お金を忘れた村』というバーチャル村での実験を始めた。

お金を忘れた村 -概要-

目的
「村人が心地よく暮らすための、いい感じの仕組みやルールを見つける」

ルール
・村人は自分の屋台をひとつ持っている

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・定期的に村人会議を開催して、困りごとや相談ごとを共有して、 心地よく暮らすためのルールを作る(合議制)

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・ルールを試してみてうまくいかなかったら、いつでも見直し

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・村人名で会話する(例「さと吉どん、調子はどうだい?」)

・ 村人たちは、村の外ではお金を思い出して、そこでも生活している

こういうルールで始めることにした。

村人たちは、やっぱりお金的なモノを生み出すのだろうか?
それとも、お金を介さない別のルールを見つけ出すのだろうか?

最初に生まれた、ありがとうの木

お金を忘れた村に集った村人たちは、
ルールに則って、そこに各々の屋台を建てた。

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村を成り立たせるために必要なものって何だろう?
持っているものや技能を交換しあうところからだろうか?
と考え、自分の屋台に「○○できます」と書いてみた。

が、ニーズというのは降って湧くものでもなく、何も起こらない。

うーん…と悩む村人たち。

「まずは、自分たちに必要なものや気持ちを見える化しよう」
ということになり、
「誰かに『ありがとう』という気持ちを抱いたら、その人の家のそばに『ありがとうの木』を植えよう」
というルールが、最初に生まれた。

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このルールを試したところ、なかなか良かった。

シャイな日本人は、面と向かってお礼を言うのが苦手だし、
「ありがとうを言ったら、逆に気を使わせてしまうかもしれない」
と変に気を回してしまったり、あるいは後から
「あ、あの時、お礼を言いそびれていた」とか
「思い返してみると、あの時の○○さんの言葉に助けられたな」とか
気づくことがある。

『ありがとう』の気持ちを、後からそっと伝えられる。
それが良かった。

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次に生まれた、もやもやの木

その次に、『もやもやの木』が生まれた。
もやもやを抱えたままにしておくと、後になってこじれていってしまうから、もやもやすることがあったら、もやもやの木を植えよう、と。

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やってみると、これも良かった。

もやもやというのは、誰かに対するもやもやであることも多く、
それを相手に直接伝えることに躊躇いがあるから、それを表に出せず中に抱えて、もやもやを育ててしまう。

もやもやした気持ちを、一人の時に、えいっえいっと『もやもやの木』に託して植える。
相手に直接ぶつけるのではなく、ただ、その場に植える。
そうすると、ちょっと気持ちが休まったりもした。

また、他の人の植えた『もやもやの木』を見て、
「そんなことに、もやもやしてたんだ!? むしろこっちは『ありがとう』って思っていたくらいなのに!」
と驚くこともあった。

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増えることは良いことなのか?

そんな風にして、木が増えていくと、
「ただ、ひたすらに木が増えていくのでいいのだろうか?」
そんな問いが出てきた。

「じゃあ、使える『ありがとうの木』に制限を付ける?」
「木が増えてきたら、この木を使って何かができたらいいんじゃない?」
そんな案が出た。

ん?
今は誰かに「ありがとう」の気持ちを感じたら、何の制限もなくいくらでも「ありがとうの木」を植えられるのに、制約ができるの?
木がないと出来ないことが、何か生まれてしまうの?
そんな戸惑いが生じて、口にしてみた。

うーん…と悩む村人たち。

「『何かが増えるのは良いこと』という考えが私たちは染み着いているのかもしれないね」
「私たちは、お金を忘れ切れていないのかもしれない…」

その時、村人の一人が言った。
「別に増えなくてもいいんじゃない? 誰かに『ありがとう』を伝えたくなったら、既に植わっている『ありがとうの木』を引っこ抜いて、植え替えるのでもいいんじゃないか?」

「Aさんへの『ありがとう』が書いている木を引っこ抜いて、Bさんへ『ありがとう』を伝えるの?」
「うん、Aさんがその『ありがとう』を見たなら、その木は別にもうAさんの家のそばに植わってなくていいだろ?」

確かに、色々な人へのありがとうの言葉が、木に追記されながら植え替えられていくというのも、良いかもしれない。
『ありがとうの木』は、誰かの所有物ではないということだ。

「いっそ、増えるんじゃなくて、減るんでもいいんじゃない? 何か良いことがあったら、ゴミが消えるとか」
と村人が言った。

「え!? ただ消えるんじゃ何があったかわからないよね?」
「別に何があったかわからなくても、いいんじゃない? ゴミが消えたのを見て、『あぁ、誰かに何か良いことがあったんだな』って、ただ思えばいいんじゃない?」

なる…ほど…。

村に2つのルールが追加された。

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そうして、村にゴミがばら撒かれた。

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ゴミとは何か?

その次の村人会議までの間に、村にばらまかれたゴミが消えることはなかったのだけど、ゴミを見ながら私は考えた。
「このゴミを見ていると、確かに消したい気持ちになるな…。ゴミとは、一体何なのだろう?」

村人たちの暮らす村に積もるゴミ。
見ていると、消したくなるモノ。

一般的なゴミを思い浮かべてみる。
一口にゴミと言っても、ゴミをゴミと見なしているのは個人の主観や人間の都合であって、もしも有効活用することができるようになれば、それは途端にゴミではなくなる。

ゴミ。
それは、つまり、「誰かの困りごと」ではないか?

困りごとである間は、ゴミ。
困りごとでなくなったら、ゴミではなくなる。

村の誰かの困りごと。

そう思った瞬間、不意にひらめいた。

交換ではなく、私たちは、ただ「見えればいい」のかもしれない。

この村の実験を始めた時、コミュニティを成り立たせるものは交換かな、と思っていた。人と人が、互いにできることを交換しあうことで、コミュニティは成り立つのだろうと。

だけど、そうではなく、
私たちは、ただ「見えればいい」のではないか?

『ありがとうの木』が増えるのを見れば、何だか暖かい気持ちになり、
ゴミがばら撒かれているのを見ると、何だか気持ち悪くてムズムズする。

感じ方は人それぞれだから、
ゴミが散らばっているのがいいって人もいるかもしれない。
それはそれでいい。

ただ単に、村の状態が見えること。見えて、そして、自分の気持ちに沿って、何かをしたりしなかったりすること。
そうすれば、自ずと、そこに暮らす人たちにとって心地よい場が保たれるのではないか?

その次の村人会議で、
「困りごとを見える化しよう!」
と提案してみた。

「困りごとを誰かが解決してくれたら、何を返すの?」
「困りごとを解決したい人がただ解決すれば良くて、特にお礼とかいらないんじゃない?」
「何も返さないのは落ち着かないような…」
「やってみて、気持ち悪かったら何か返すルールにすることにして、とりあえず、やってみよう」
「じゃあ、楽しい気持ちで困りごとを挙げられるように、困りごとを花火で打ち上げて見える化しよう」
「人によっては『困っている』って言いづらいんじゃない?」
「じゃあ、『お願い花火』にしよう」
そんな会話を経て、「お願い花火」のルールが生まれた。

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「私たちは綺麗に分けることに慣れているのかもしれないね」
村人の一人が言った。
何かをしてもらったら、何かを返す。
そうやって精算することが当たり前になっているね、と。

だけど、そんな風に精算し続けていたら、場はいつまでたっても豊かにはならないのではないか?
もしかしたら、精算せず、貸し借りを作ったままにしておくことこそが、「場を豊かにする」ことに繋がるのではないだろうか?

そんな会話を交わした。

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まとめ

こんな感じに、『お金を忘れた村』の実験は、ゆるゆると続いている最中です。まだ結論は出ていないけれど、
「場」の状態を見える化すれば、「場」を調えようとする力が自ずと発生して、お金とか交換とか、そういうルールを作らなくても、コミュニティは成立するのではなかろうか?
という仮説が私の中で生まれているところです。

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